寝殿造
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010:法隆寺の聖霊院(しょうりょういん)。
東大寺再建は中国風の大仏様でなされたが、一時的かつ東大寺だけに限られており、奈良の大工は京で寝殿造を建てていた木工寮等の大工(だいこう)の影響下にあった[1]。聖霊院には寝殿造の技法が残り、「中世建具の宝庫」[2]とも言われ、太田博太郎は「屋根も瓦を檜皮葺に置き換えて考えれば対屋そのままの姿」[3]と言う[注 1]030:東三条殿平面図
川本重雄『寝殿造の空間と儀式』[4]より作成。現在ではこの川本案が最も信頼性が高いとされている。寝殿等の母屋の柱間寸法は10尺とされるが、寝殿と東対の南庇、及び中門廊は梁間12尺程度である可能性が高い[5]040:藤原頼長の宇治小松殿平面図[6]
寝殿造も確実な史料に基づく復元図では一様ではないという最初の例である。まず侍廊がつながっておらず、馬道(めどう)[注 2]で切り離される。次に孫庇が北ではなく南に追加されている[注 3]。なおこの屋敷は藤原忠実から頼長に譲られたものである。050:平清盛の六波羅泉殿平面図
一様でない第二の例。母屋が並戸で南北に仕切られる[7]。古文書に残る指図は中宮の出産の室礼指図、つまりその時点では中宮御所であるので殿上あるが、通常侍所である建物は馬道[注 2]を挟んだ別棟である[注 4]。なお柱間寸法10尺と仮定して作図しているが、実際にはそれより小さく、また建物により長短がある可能性が高い[5]060:藤原定家の京極殿・平面図
最小の寝殿造[8]とも呼ばれる。ものの建造当初の姿。後に中門廊代が付加された[注 5]

寝殿造(しんでんづくり)とは、平安時代から中世にかけての建築様式である[9][10]
概要

平安時代は現在よりも気温が高く、住宅も風通しの良いものが発達した。

建物には母屋と庇(ひさし)という大陸伝来の建築構造に板床を張って濡れ縁を巡らせ、内部は丸柱が多く壁はほとんど無く床は板張りだった。外周を扉や(しとみ)といった開放可能な建具で覆い、夜は閉じ、昼間は開放した。

広い室内を移動・取り外しができる障屏具で仕切って実際の生活空間を作った[11][12]。障屏具には、御簾や几帳などの布を用いたものや、屏風や衝立などのといったパネル状のものがあり、総称して障子と呼んだ。「障子」は現代では木枠に和紙を貼ったものを指すが、元々は広く仕切り具を指していた。儀式や饗宴の際には障屏具を取り払って広い空間を作った。障屏具・障子で室内に生活空間を作ることを室礼と呼んだ。

寝殿造が成立するのは10世紀半ばから11世紀とされるが[13][14]、寝殿造の具体像について説明出来る史料が残るのは12世紀移行である。寝殿造は源氏物語時代の建築様式として有名だが、源氏物語が描かれた11世紀の同時代史料は少なく、平面構成や建物の配置の実態をつかめるほど史料はない[9][15]。また史料上明らかなのは『類聚雑要抄』に記録されたような最上級の屋敷が中心であり、里内裏の候補にならない中小規模の寝殿造の情報は極めて少ない。

寝殿造は次第に変化し、後の書院造に近づいて行った。その流れの原動力のひとつは建具の発達である。几帳(きちょう)などのカーテン状の障子による室礼がパネル状の障子による間仕切りへと変化した。具体的には遣戸(やりど)である。遣戸は10世紀末には登場しており[16][17]、その後、建物の外周には舞良戸(まいらど)が、室内の間仕切りには鳥居障子(襖)が多用されるようになった。

平安時代でも、寝殿の表に当たる南面(ハレ側[注 6])は、御簾几帳、屏風によって室礼がなされるが、私的空間である北面(ケ〈褻〉側[注 6])では、遣戸押障子鳥居障子が用いられていた[7][18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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