寛永通寳
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寛永通宝寛永通宝。上:裏面に波形が刻まれているもの(4文)、中:文銭、下:一般的なもの(1文)

寛永通宝(かんえいつうほう、旧字体:ェ永通󠄁寶)は、日本江戸時代を通じて広く流通した銭貨寛永13年(1636年)に創鋳、幕末まで鋳造された。
概要

形状は、円形で中心部に正方形の穴が開けられ(円形方孔)、表面には「寛永通寳」の文字が上下右左の順に刻印されている。材質は、製の他、、精鉄、真鍮製のものがあった。

貨幣価値は、裏面に波形が刻まれているものが4、刻まれていないものが1文として通用した。当時96文を銭通しに通してまとめると100文として通用(短陌・省陌)し、通し100文と呼ばれていた[1][2][3]

裏面に文・元・足・長・小・千・久・盛などといった文字(多くの場合1文字だが、十三・久二など2文字の場合もある)が表記されているものもあり、多くの場合は鋳造地を示すが、文銭の「文」や二水永の「三」などのように鋳造地ではなく製造された年代などを表すものもある。

寛永通宝は大別すると銅一文銭(古寛永・新寛永)・鉄一文銭・真鍮四文銭・鉄四文銭となる。

小判丁銀は日常生活には大変高額であり財布に入れて使用される様なことはまず無かったが[4]、銭は庶民の日常生活に愛用されて広く流通した[5]一分判や小玉銀(豆板銀)でさえ、銭屋と称する両替屋で銭に両替して使われていた[6]
発行の経緯

江戸幕府が成立すると、幕府は金座銀座を設置して金貨・銀貨を発行して統一を進めた[7]。一方、銅銭については、慶長13年(1608年)に江戸を中心とした東国で通用していた永楽通宝(永楽銭)の発行を停止し、翌年には金1両=永楽銭1貫文=京銭4貫文=銀50目の公定相場を定めて、京都を中心に流通していた"京銭"の通称で呼ばれていた鐚銭という私鋳銭が幕府の標準銅貨とされた。これは、徳川の拠点であった東国の幕府領を対象にした撰銭令の一種であったが五街道の整備によって江戸と上方(京都・大坂)の交通整備を図っていた幕府が自らの拠点では一般的であっても日本全体では特異な流通であった永楽銭の通用を止めて京銭を基に銅銭の統一を図ったものであった。また、徳川家康秀忠父子の上洛や大坂の陣による軍事行動の影響で東海道筋の伝馬・駄賃相場は不安定であり、銅銭の大量流通による撰銭が頻発していたことへの対応策として慶長から元和年間にかけて幕府は慶長13年の方針の延長線上にある撰銭令を複数回発令している。こうした方針は徳川氏と同様に豊臣政権下で領国内で独自の銅銭を発行していた諸藩を直ちに拘束するものではなかったが、幕府の政治的優位の確立と共にその政策にも影響を与えつつあった[8]。京銭は対外取引の場でも採用され、オランダ・ポルトガルなどのヨーロッパの商船や日本の朱印船によって中国や東南アジアに輸出されていた。この大量輸出は日本国内における深刻な銅銭不足をもたらして銭相場を上昇させた[9]

平戸のオランダ商館にいたフランソワ・カロンが著した『日本大王国志』の寛永13年(1636年)の記述に寛永通宝の発行に関する言及があり、日本の皇帝(=将軍)が新しいカシー(貨幣)を発行する前に4年前から旧銭(京銭)を実際の相場より高い価格で買い入れていたと記している。また、寛永11年(1636年)には徳川家光の上洛に合わせて京都に滞在していた細川忠利が面識のある長崎奉行榊原職直に送った書状(『大日本近世史料 細川家史料』18-2507号)の中で家光が戸田氏鉄松平定綱に対して新銭発行の検討を命じたとする風説に関する問い合わせをしている。実際に寛永12年(1635年)6月には幕府は流通貨幣の全国調査を行い、諸大名に対しても貨幣の流通状況を報告させている[10]。安国良一は幕府は家光上洛に合わせて江戸において贈答用の新銭を鋳造して京都に持ち込んだものの、京都郊外の坂本で大量の銅銭が鋳造されて海外に輸出されていることを知った家光や幕閣が衝撃を受けて、既存の流通銭である旧銭を買い上げて新たな銅銭(公鋳の寛永通宝)を発行することにしたと指摘している。また、安国は翌寛永12年(1635年)の朱印船貿易停止には銅銭の輸出を止める意図も含んでいた可能性や同年の武家諸法度改正によって導入された参勤交代によって交通量の増加や街道筋での貨幣使用量が増加することも見通していたとも指摘している[11]

寛永13年5月5日、幕府は江戸において6月1日より寛永通宝を発行する高札を立て、7日に京都・大坂にこの命令を伝えるために派遣された高札を持った幕府の徒目付が20日に大津に到着している。公式には当面の間は旧銭と新銭の併用を認めていたが、5月6日(高札が立てられた翌日)老中の酒井忠勝邸において諸藩の留守居を集めて行った説明会では旧銭の使用を停止する方針が説明されたらしく、この話を聞いた諸藩、とりわけ自前で私鋳銭を鋳造していた藩(長州藩薩摩藩など)には動揺が広がったものの、幕府も十分な流通量の寛永通宝を用意することができず[12]、幕府自身が東海道筋の銭不足を解消するために5月末までに遠江掛川と大坂にあった幕府の蔵にある古銭(京銭)を放出することを決め、大番方の久留正親・小幡重昌が派遣され、東海道の各宿に100貫文・バイパスの役割を果たしていた中山道西側および美濃路[注釈 1]の各宿には60貫文を支給し、城下町などの特殊な需要のある宿には上乗せの支給を行った[13]。さらにやや遅れて銅銭不足の最大の原因になっていた銅銭を含めた銅の輸出禁止措置を寛永通宝の鋳造材料の確保を名目に寛永14年(1637年)4月から開始し、途中で軍事物資の確保に目的を変えながら、輸出統制の仕組みが整備される正保3年(1646年)まで続けられた[14]
略史

寛永通宝のうち、万治2年(1659年)までに鋳造されたものを古寛永(こかんえい)と呼ぶ。その後しばらく鋳造されない期間があり、寛文8年(1668年)以降に鋳造されたものを新寛永(しんかんえい)と呼ぶ[15][16]。この古寛永と新寛永は、製法が異なり、銭文(貨幣に表された文字)の書体もあきらかな違いがある。

元文4年(1739年)頃、鉄製1文銭が出現する。

明和5年(1768年)、真鍮製4文銭制定。

万延元年(1860年)頃、鉄製4文銭が出現する。

銅または真鍮製の寛永通宝は、明治維新以後も貨幣としての効力が認められ続け、昭和28年(1953年)末まで、真鍮4文銭は2厘、銅貨1文銭は1厘硬貨として法的に通用していた(通貨として実際的に使用されたのは明治中期頃までと推定される)[17]

また、中国各地での大量の出土例や記録文献などから、でも寛永通宝が流通していたことが判っている。清の前のでは、銅銭使用を禁じ、紙幣に切り替えていたが、清になってから銭貨の使用が復活した。しかし銭貨の流通量が少なかったため、銭貨需要に応えるべく、日本から寛永通宝が輸入された。
銅一文銭
二水永

寛永3年(1626年)に常陸水戸の富商・佐藤新助が、江戸幕府水戸藩の許可を得て鋳造したのが始まりだが、この時はまだ、正式な官銭ではなかった。

このとき鋳造されたとされるものが、いわゆる二水永(にすいえい)と呼ばれる「永」字が「二」と「水」字を組み合わせたように見えるものであり、背(裏面)下部には「三」と鋳込まれ、鋳造年の「寛永三年」を意味するといわれる[18]

新助はやがて病死し鋳造は途絶えるが、九年後の寛永12年(1635年)に新助の息子、佐藤庄兵衛が後を継ぎ再び鋳銭を願い出、翌寛永13年(1636年)に鋳造を再開した。このときの鋳銭が背面に「十三」と鋳込まれたものであるとされている[18]

寛永年間私鋳

寛永通寳
寛永3年(1626年)
水戸銭
二水永背三
寛永通寳
寛永13年(1636年)頃
水戸銭
二水永背星

古寛永

寛永13年6月(1636年)、幕府が江戸橋場と近江坂本に銭座を設置。公鋳銭として寛永通宝の製造を開始。

主な鋳造所は幕府の江戸と近江坂本銭座であった。しかし水戸藩仙台藩松本藩三河吉田藩高田藩岡山藩、長州藩、岡藩等でも幕府の許可を得て銭座を設けて鋳造していた[19]


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