寛容主義
[Wikipedia|▼Menu]

特定の抗原に対して、免疫反応を示さない状態については「免疫寛容」をご覧ください。

ウィクショナリーに関連の辞書項目があります。寛容

寛容(かんよう、: toleration)とは自分と異なる意見・宗教を持っていたり、異なる民族の人々に対して一定の理解を示し、許容する態度のこと。目次

1 用語

2 歴史

2.1 宗教改革の影響

2.2 トマス・モアの寛容論

2.3 ジョン・ロックの寛容論

2.4 ヴォルテールの寛容論

2.5 マルクーゼの『抑圧的寛容』


3 脚注

3.1 出典


4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

用語

日本語の「寛容」は、明治になって翻訳された語で、英語"Tolerance"の語源は、endurance、 fortitude で、もともとは「耐える」、「我慢する」という意味をもつ言葉である。次第に「相手を受け入れる」の意味をも含むようになったが、無条件に相手を受け入れるというより、自分の機軸にあったものだけを許す、という意味あいが強い。[1]

現在使われている「寛容」(Tolerance)が最初に使用されたのは15世紀[2]で、近世ヨーロッパ社会において産み出された概念である。というのも、「十六世紀の宗教改革の結果として、カトリック普遍主義が崩壊すると共に、多くの同時代人が宗教的な寛容を重要な課題または争点として認識するようになった」[3]からである。更にいえば、「まず宗派間の対立感情が頂点に達する宗教戦争の時代には、寛容は信仰の弱さの表現として否定的に考えられたが、やがて宗教戦争から平和に移行する段階になると、寛容はいわば必要悪として暫時的にではあるが肯定され、信仰の問題というよりも国家理性を優先する立場からカトリックとプロテスタントの平和的共存が実現される」[3]という状況になったからである。

これは、積極的に相手を尊重するのではなく、「異端信仰という罪悪または誤謬を排除することのできない場合に、やむをえずそれを容認する行為であり、社会の安寧のため、また慈悲の精神から、多少とも見下した態度で、蒙昧な隣人を許容する行為」[4]をするためであった。宗教戦争を経験したヨーロッパにおける特殊事情が、「寛容」を強要されたわけであり、仕方無しの「許容」である。
歴史
宗教改革の影響

1595年 マルティン・ルター95ヶ条の論題により始まった宗教改革により、キリスト教によって信仰の普遍的共同体を誇ったヨーロッパは、信仰の上ではカトリック、ルター派、カルヴァン派、英国教会の四つに分裂して、ある国で「真の宗教」の名の下で迫害された宗派が、別の国では自らこそが「真の宗教」として他の宗派を弾圧する状況が、ヨーロッパ各地で見られるようになった[5]。カルヴァンはカトリックによるプロテスタントの迫害を非難したが、カルヴァンが神権政治を実現したジュネーヴでは、人文主義者であるミシェル・セルヴェが異端の名のもとに処刑された[5]。このような不寛容に対して、デジデリウス・エラスムスは「真の宗教」をめぐって用いられる暴力を批判し、平和的な解決を説いた。その立場を受け継いだセバスティアン・カステリヨンは寛容こそがキリスト教徒のとるべき道だと示した[5]。フランスではユグノーともカトリック強硬派とも区別される第三の勢力にポリティーク派があり、政治社会の存続のために寛容を擁護して王権による政治的統一を図るべきとした。大法官ミシェル・ド・ロピタルは、良心は力で動かすことができず、もし強制すればそれは信仰ではなくなると考え、信仰と政治生活の分離を説き、権力による信仰への介入と、信仰を理由とする抵抗の両方を否定した[5]。これらの影響として、フランスでは絶対王権の確立が進み、王権神授説が登場し、身分制議会である三部会は後のフランス革命まで開催されなくなった[5]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:36 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef