富田耕生
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とみた こうせい
富田 耕生
プロフィール
本名富田 耕吉(とみた こうきち)
[1][2][3]
愛称とみこうさん[4]
性別男性
出身地 日本東京府王子区[2][3][5](現:東京都北区
死没地 日本静岡県[6]
生年月日 (1936-02-04) 1936年2月4日
没年月日 (2020-09-27) 2020年9月27日(84歳没)
血液型O型[5][7]
職業声優俳優
事務所ぷろだくしょんバオバブ(最終所属)[8]
配偶者あり[9][10]
公式サイト ⇒富田 耕生|株式会社 ぷろだくしょんバオバブ
公称サイズ(時期不明)[2]
身長 / 体重167 cm / 73 kg

声優活動
活動期間? - 2020年
ジャンルアニメ吹き替えゲームナレーション
デビュー作『鉄腕アトム(アニメ第1作)』アニメのデビュー作[11][12]
俳優活動
活動期間1950年代 - 2020年
ジャンルテレビドラマ舞台
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

富田 耕生(とみた こうせい、本名:富田 耕吉(とみた こうきち)[1][2][3]1936年昭和11年〉2月4日[1][3][5] - 2020年令和2年〉9月27日[6])は、日本声優俳優。生前はぷろだくしょんバオバブに所属[8]1969年頃までは本名で活動していた。
生涯
生い立ち

東京府王子区(現:北区の一部)に生まれ、銀行マンの家庭に育つ[2][3][5]。生家は飛鳥山の近くにあった江戸の昔から庶民の行楽地として有名であり、の頃には人で賑わっていた[3]。少年時代、山を駆けめぐり、イチョウの木に登ってはギンナンを集めたり、近くの名主の滝まで足をのばしては、ごうごうと音をたてて落ちる滝に打たれたりして、わんぱくに遊んでいた[3]。小学3年生で戦争のため、群馬県勢多郡粕川村(現:群馬県前橋市粕川町)に学童疎開した[3]。高校は東京都立第四商業高等学校に進学して卓球部に所属し、高校時代の1953年徳島県で開催された第8回国民体育大会に卓球で出場した[3]。そのほかに、高校時代は演劇部と自分たちの演劇グループの2つで活動した[5]。高校の演劇部の先輩には関根信昭、後輩には声優の古川登志夫がいる[13]

高校時代に劇団東俳の舞台『青いリンゴ』を見たことから舞台俳優に憧れ、高校を卒業する前に東芸の試験を受験し、卒業後には研究生になる[3][14]。役者を目指すが両親の反対から中央大学法学部へ入学するが、1年で退学した[5]。退学したことは両親に黙っていたが、2年後に姉の協力もあり許してもらえたという[5]。東芸では3期生にあたり[15]。研究生仲間には田の中勇[13]、少し後輩の「3期生半」には野沢雅子がいた[15]。研究生時代には食べるために新聞配達やサンドイッチマンなどアルバイトならなんでもやり、同じく東芸に所属していた俳優の山谷初男とは三畳一間の同居生活を送っていた[3]
キャリア

東芸で舞台俳優としての活動をする傍ら[11]、『淡島千景ショー』などのラジオ番組でガヤを担当したり、生放送時代のテレビドラマに俳優として出演するなどマスコミ仕事もした[14]。声優としてのデビュー作はNHKラジオ時代劇ラジオドラマでの端役だという[16]1961年から1969年から放送されたテレビドラマ『七人の刑事』(TBSテレビ)の終わり頃にはかなりいい役で出演するようになっていた[14]

劇団東芸に吹き替えの仕事が舞い込むこととなり、劇団では若手だった富田が本格的に声優業を始めることになる[14]。日本語吹替のデビュー作は本人いわく「『アニーよ銃をとれ[注 1]か『ロビン・フッド』[注 2]だと思う」とのこと[5]テレビアニメでのデビュー作は1963年、『鉄腕アトム (アニメ第1作)[11][12]。声優の仕事をするようになって多忙を極め、最盛期には週にレギュラーの仕事が11本、1か月では60本にもなるというスケジュールで睡眠時間が2時間から3時間という時代が15年ほど続いたという[14]

1965年8月に「劇団現代人」の立ち上げに参加[17]

その後、土の会[18]、東京アーチストプロダクションを経て[19]1969年には声優プロダクションとして設立された青二プロダクションへ創立メンバーとして参加する[20]。立ち上げの際の挨拶状で「富田耕生(耕吉改め)」と芸名の変更を告知している[21]。大所帯になった青二プロに不満を持つ声優たち16名が同事務所を脱退し、1979年ぷろだくしょんバオバブを立ち上げて独立した際は、実質的なリーダーを務めた[3][5]。そのバオバブは後年になってメンバーの離脱が相次ぎ、2015年に清水マリが出した著書では発足時の声優で2015年当時も残っていたのは、富田、清水、小原乃梨子緒方賢一の4人だけと記していたが[22]、富田を除く3人はその後立て続けに移籍し、最後までバオバブに残った発足時の声優は富田ただひとりだった。
晩年・死去

2009年、第3回声優アワード功労賞を受賞[23]

2014年からは、同年の1月27日に死去した永井一郎の後任として『名探偵コナン』の鈴木次郎吉役を演じることとなり、死去するまで6年間担当した[24]

2020年9月27日脳卒中により静岡県内の自宅で死去[6][25][26]。84歳没。同年10月3日放送の『名探偵コナン』では鈴木次郎吉の登場シーンにて追悼のテロップが流れた[24]
人物

声種ローバリトン[27]。趣味は旅行(寺社仏閣めぐり)や読書時代小説の読破)[8]。特技はスキー(1級)、ゴルフ(シングル)[8]普通免許自動二輪免許の資格を持っている[8]。好きな言葉は「努力」[5]。息子2人、娘がいた[9]

髭のある役が多かった[28]。太った人物、髭の生えた博士役で知られていた[28]

手塚治虫原作アニメの大半で、ヒゲオヤジ役を担当していた[29]

収録現場では若手の演技指導を積極的に行い、銀河万丈[30]西尾徳[31]三ツ矢雄二[32]などは若手の頃に現場で富田に演技指導を受けたことを回想している。

日本テレビ版『ドラえもん』で主人公であるドラえもんを演じた、初代ドラえもん役声優でもある。また、ドラえもんが「あらよっと」という掛け声で道具を出すのは富田のアドリブである。もっとも、同年にすぐに野沢雅子に変わってしまった[33]。富田が降板したのは交通事故を起こしたからだという噂があったが、これは『モンシェリCoCo』の製作打ち合わせのため、日本テレビ動画の新潟スタジオに行く途中に下崎闊が交通事故を起こしたことに起因する。のちに下崎は『モンシェリCoCo』放送時、スタッフとのトラブルで制作主任を降板。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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