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日本基督教団初代統理の富田満皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会の司会者を務める富田満牧師
富田 満(とみた みつる、1883年11月5日 - 1961年1月15日)は、日本の神学者、牧師。教会合同、エキュメニカル運動の指導者。日本基督教会(現日本キリスト教会)大会議長、日本基督教団統理者として天皇に賜謁。神の国運動委員長、東京神学大学、明治学院大学理事長、金城女子専門学校理事長、日本基督教連盟議長、日本キリスト教協議会の幹部など要職を歴任。日本基督教団芝教会牧師を務める。 1938年、日本基督教会大会議長、日本基督教連盟議長として朝鮮の朱基徹に神社参拝を勧め、「諸君の殉教精神は立派である。しかし、わが政府は基督教を捨て神道に改宗せよと迫ったか、その実を示してもらいたい。国家は国家の祭祀を国民としての諸君に要求したに過ぎない。」と、神社参拝を行う限りにおいて日本政府がキリスト教を容認している事実を示し、神社参拝の非宗教性を主張した。また信教の自由については、「明治大帝が万代におよぶ大御心をもって世界に類なき宗教の自由を賦与せられたものをみだりにさえぎるは冒涜に値する」と述べた[1] 。 「わが国の憲法は国民の信教の自由を認めている。それは、憲法が認めるから信仰の自由があるのではなく、本来人のこころは自由なものであるから、これを憲法が認めているのである。」とした。[2] 戦後初の常議員会で、一議員から富田統理と役職員は、戦争責任をどのように考えるべきかと問われて、富田は「余は特に戦争責任者なりとは思わず」と言い切った。このように戦後に戦争責任を感じてはいなかった[3]。 愛知県東春日井郡印場村(春日井市)の農家に三男として生まれる。5歳の頃から教会学校に通った。16歳の時南長老ミッションのR・E・マカルピン宣教師より洗礼を受ける。 1904年、明治学院神学部に入学。日露戦争に従軍。1907年、神戸神学校に転校し、1909年卒業。1911年按手礼を受け牧師となる。1918年プリンストン神学校に入学。1920年日本基督教会芝教会牧師となる。1929年神の国運動中央委員長となり、賀川豊彦と共に働く。1934年に日本基督教連盟総会議長。 1938年6月末、日基教会大会議長であった富田が、神社参拝拒否の長老教会を説得するために朝鮮を訪問した。平壌の教会で、120名の長老教会代表者と懇談した。富田は神社は宗教でなく、儀礼としての参拝をするように説得した。しかし、長老教会の牧師達は譲らず、神社参拝を偶像礼拝として拒否した。それに対して富田は明治天皇が与えた信教の自由にたいする冒涜であると言った[4]。 1941年3月日本基督教会大会議長より教派合同準備委員会委員長に選ばれる。
思想
生涯日本基督教団合同前の日本基督教会代表の準備委員 後列左より、熊野義孝、三吉務、富田満、小野村林蔵、佐波亘、浅野順一、飯島誠太、堀内友四郎、 前列左より、今村好太郎、村田四郎、金井為一郎、村岸清彦