富永一朗
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富永 一朗
(とみなが いちろう)
生誕 (1925-04-25)
1925年4月25日
京都府京都市
死没 (2021-05-05) 2021年5月5日(96歳没)
東京都世田谷区
国籍 日本
職業漫画家
ジャンルギャグ漫画
代表作『チンコロ姐ちゃん』
受賞日本漫画家協会漫画賞大賞受賞(1986年
紫綬褒章受章(1992年
勲四等旭日小綬章受章(1998年
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富永 一朗(とみなが いちろう、1925年4月25日 - 2021年5月5日)は、日本漫画家勲等勲四等称号岡山県高梁市(旧:川上郡川上町名誉市民
来歴・人物

京都府京都市生まれ[1]。父は大分県佐伯市出身、母は福島県南会津郡田島町(現・南会津町)静川出身[2]。父は京都の大丸デパートに勤務していた[3][2][4]。家族に弟がいる。

3歳のとき父を肺結核で失い、母の郷里の田島町で2年間を過ごした後[3][4]、5歳の時から父の郷里の大分県佐伯市に移り、中学卒業までそこで育つ[1][2][4]。小学校4年頃から田河水泡の真似をして漫画を描き始める[3]。大分県立佐伯中学(現在の大分県立佐伯鶴城高等学校)に2番の成績で合格[3]。同校1年生のとき、地元で小学校教員をしていた母が不倫事件を起こして子供を産み東京に出奔[2]。このため祖母に育てられた[2]。経済的理由から大学進学を断念したこともあるが、台湾の台南師範学校(現在の国立台南大学)が無試験[3]かつ学費無料であることを知り、同校に入学[2]。在学中は学徒動員で兵隊に取られ、二等兵として半年間高射砲の訓練を受け[2]台南市の高射砲陣地に配属される。富永は「高射砲を撃つどころか、空襲を受けて逃げ回っていた」と語っている[4]。終戦はその台南で迎えた[4]

敗戦後、教員免状を得て台南師範学校を卒業。教員として台南郊外の学校に3か月勤務したが、1945年12月に中国軍(国民党軍)の接収で教職を追われ、台湾で半年間のルンペン生活を送り、羊羹屋の下働きを経て1946年3月に引き揚げ帰国[2]。佐伯市の実家に戻り、1946年5月頃から親戚のタドン工場でタドンの製造販売を行うが、売り物のタドンを無料配布したために2年ほどで解雇される[3]。後に公立小学校教師(=地方公務員)となり、佐伯市立鶴岡小学校で理科と図画の教師となった。「子供の村、というのをつくり、毎朝、ぼくが作った歌をうたったり、夏は校庭でキャンプファイヤーをしたり」したが、「村人たち(引用注:生徒)とはどうもしっくりしなかった」[4]。同校では2年ほどで人員整理に遭い、1948年佐伯市立佐伯小学校に転じて図画を教えるようになった[2][4]。佐伯小では「全国の図画コンクールで特選を取るほどの児童を育てた」[4]という。

1951年4月に教職を辞して上京し、母が洋裁の仕事をしていた代田橋の母子寮に潜り込み、帝国興信所の臨時雇いとして会社年鑑の編纂をしながら[4]サンデー毎日』に漫画を投稿[3]。当時、新富町の帝国興信所の向かいに新太陽社(旧・モダン日本社)があったため『モダン日本』編集部に作品を持ち込んだところ、編集者時代の吉行淳之介から才能を認められ、後に吉行が移った三世社の『講談讀切倶楽部』に作品を多数掲載された[3][4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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