富岡鉄斎
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富岡 鉄斎
(とみおか てっさい)
鉄斎
誕生日1837年1月25日
出生地京都
死没年1924年大正13年〉12月31日
国籍 日本
流派文人画
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富岡鉄斎邸跡石碑(京都市上京区・北緯35度1分32.72秒 東経135度45分28.37秒)

富岡 鉄斎(とみおか てっさい、1837年1月25日天保7年12月19日〉- 1924年大正13年〉12月31日)は、明治・大正期の文人画家儒学者教員

日本最後の文人と謳われる。歴史学者・考古学者の富岡謙蔵は長子。
生涯仙縁奇遇図 1919年 紙本着色

京都三条通新町東)法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として生まれる。幼名は不明。猷輔を通称とし、のちに道昴・道節と称し、明治のはじめ頃、一時を鉄斎としたが、しばらくのち百錬に改名。を無倦、を鉄斎。別号に鉄人、鉄史、鉄崖など。

耳が少し不自由であったが、幼少の頃から勉学に励んだ。はじめ富岡家の家学である石門心学を、15歳頃から大国隆正国学勤王思想を、岩垣月洲らに漢学陽明学詩文などを学ぶ。

尼僧の大田垣蓮月が少年であった鉄斎を侍童として育て、人格形成に大きな影響を与える[1][2]

安政2年(1855年)18歳頃に、女流歌人大田垣蓮月尼に預けられ薫陶を受ける。翌年、南北合派の窪田雪鷹、大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画小田海僊に、大和絵浮田一に学んだ。

文久元年(1861年)には長崎に遊学し、長崎南画派祖門鉄翁木下逸雲小曽根乾堂らの指導を受けた。

翌2年、山中静逸と出会いをきっかけに、画業で生計を立て始めた。この頃私塾を開設。藤本鉄石板倉槐堂江馬天江松本奎堂平野国臣らと交遊した。

維新後の30歳から40代半まで大和国石上神宮和泉国大鳥神社神官(宮司)を務めた。この頃、大和国の式内社加夜奈留美命神社を復興している。

座右の銘である「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実践し、日本各地を旅した。明治7年(1874年)には、松浦武四郎との交流から北海道を旅し、アイヌ風俗を題材にした代表作「旧蝦夷風俗図」を描いている。

30歳で中島華陽の娘と結婚。長女が生まれるが妻とは死別。のちに再婚し長男を授かる。明治14年(1881年)、兄伝兵衛の死に伴い京都薬屋町に転居し、終の住処とする。

教育者としても活躍し、明治2年(1869年)、私塾立命館で教員になる。

1875年(明治8年)には山梨県甲府市を来訪する[3]滋賀県近江国)に本家があり、甲府柳町(甲府市中央四丁目)に醸造所と営業所を構えていた野口家(十一屋)と鉄斎は交流があり、明治8年と1890年(明治23年)に山梨県を訪れている[3]。明治8年には南北朝時代南朝皇族尹良親王の足跡を訪ねて長野県飯田市に滞在し、駒ヶ根から高遠を経て山梨県へ入り、韮崎市経由で甲府へ至る[3]。同年7月19日には富士山へ登頂し、7月21日に甲府へ戻ると8月5日まで滞在し、甲府市酒折酒折宮へ参拝した。その後、市川大門(市川三郷町市川大門)で名望家の依田孝宅を訪ねると山梨県を後にし、鎌倉・東京を経て京都へ帰る[3]

明治23年の旅では同年4月に京を経つと6月まで東京へ滞在し、八王子駅まで鉄道を利用し、八王子から甲府まで馬車・徒歩で旅し、天目山景徳院など武田家ゆかりの地を訪れた[3]。さらに再び酒折宮を参拝すると、6月14日に甲府柳町の野口家に到着している。山梨県滞在中は恵林寺昇仙峡など史跡・名勝を訪れている[3]

野口家の当主・野口正忠(柿村)は鉄斎をはじめ数多くの文人と交流し、蒐集した美術資料は十一屋コレクション(山梨県立美術館所蔵)と呼ばれる。また、野口家と同じく甲府城下の横近習町(甲府市中央二丁目)に店を構える呉服商・大木家の当主である大木喬命は正忠や鉄斎が明治8年の旅で訪れた依田孝と交流があり、喬命も数多くの美術資料を蒐集した[3]。大木家の美術資料は大木家資料(大木コレクション)と呼ばれ、「甲斐猿橋図」など多くの鉄斎作品を含んでいる[3]

明治26年(1893年)、京都市美術学校で教員に就任し、明治37年(1904年)まで修身を教える。

明治42年(1909年)2月20日、吐血して胃潰瘍と診断される。胃潰瘍を病んだ後は食事にも工夫をこらし、それまでは蕎麦、小芋を好み、調理も辛みの煮付けを好んだとされるが、70歳以降は熱粥を常食とした[4]

大正13年(1924年大晦日持病であった胆石症が悪化。京都の自宅にて没する。享年89。墓所は西京区是住院。
作品と画業艤槎図 89歳の作

画業は歳を重ねるごとに次第に認められ、京都青年絵画研究会展示会の評議員(1886年)、京都美術協会委員(1890年)、京都市立日本青年絵画共進会顧問(1891年)、帝室技芸員1917年6月11日[5])、帝国美術院会員(1919年)と、順風満帆だった。この間の明治29年(1897年)に田能村直入谷口藹山らと日本南画協会を発足させ南画の発展にも寄与しようとした。また今尾景年を通して橋本雅邦と知己となり、明治関東画壇との交流も深まった。

鉄斎は多くの展覧会の審査員となったが、自らは一般の展覧会に出品することはあまりなかった。明治30年(1897年)以降、自らが評議員である日本南画協会に定期出品している。賛助出品という形で、大正9年(1920年聖徳太子御忌千三百年記念美術展に「蘇東坡図」を出している。また大正11年(1922年)、大阪島屋で個展を開催している。


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