富岡製糸場
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富岡製糸場
東置繭所
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情報
用途見学施設
旧用途製糸工場
設計者エドモン・オーギュスト・バスチャン(主要部分)
管理運営富岡市
敷地面積55,391.42 m²
着工1871年(明治4年)3月
竣工1872年(明治5年)7月(主要部分)
開館開所1872年11月4日(明治5年10月4日
所在地370-2316
群馬県富岡市富岡1番地1
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度15分19秒 東経138度53分16秒 / 北緯36.25528度 東経138.88778度 / 36.25528; 138.88778 (富岡製糸場)座標: 北緯36度15分19秒 東経138度53分16秒 / 北緯36.25528度 東経138.88778度 / 36.25528; 138.88778 (富岡製糸場)
文化財史跡 / 国宝/世界遺産
指定・登録等日2005年(平成17年)7月14日 / 2014(平成26年)年12月10日
備考

近代化産業遺産

世界遺産記載物件構成資産

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富岡製糸場(とみおかせいしじょう、Tomioka Silk Mill)は、群馬県富岡市に設立された日本初の本格的な機械製糸[注釈 1]の工場である。1872年明治5年)の開業当時の繰糸所、繭倉庫などが現存している。日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも大きく貢献した工場であり、敷地を含む全体が国の史跡に、初期の建造物群が国宝および重要文化財に指定されている。また、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、2014年(平成26年)6月21日の第38回世界遺産委員会ドーハ)で正式登録された[1]

時期によって「富岡製糸場」(1872年、明治4年から)、「富岡製糸所」(1876年、明治9年から)、「原富岡製糸所」(1902年、明治35年から)、「株式会社富岡製糸所」(1938年、昭和13年から)、「片倉富岡製糸所」(1939年、昭和14年から)、「片倉工業株式会社富岡工場」(1946年、昭和21年から[注釈 2])とたびたび名称を変更している[2]史跡国宝重要文化財としての名称は「旧富岡製糸場」、世界遺産暫定リスト記載物件構成資産としての名称は「富岡製糸場」である。
概要

日本は江戸時代末期に開国した際、生糸が主要な輸出品となっていたが、粗製濫造の横行によって国際的評価を落としていた。そのため、官営の器械製糸工場建設が計画されるようになる。

富岡製糸場は1872年(明治5年)にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場であり、器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていた。そこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献した。

1893年(明治26年)に三井家に払い下げられ、1902年(明治35年)に原合名会社、1939年(昭和14年)に片倉製糸紡績会社(現片倉工業)と経営母体は変わったが、1987年(昭和62年間)に操業を停止するまで、第二次世界大戦中も含め、一貫して製糸工場として機能した。

第二次世界大戦時のアメリカ軍空襲の被害を受けずに済んだ上、操業停止後も片倉工業が保存に尽力したことなどもあって、繰糸所を始めとする開業当初の木骨レンガ造の建造物群が良好な状態で現代まで残っている。2005年(平成17年)に敷地全体が国の史跡に、2006年(平成18年)に初期の主要建造物(建築物7棟、貯水槽1基、排水溝1所)が重要文化財の指定を受け、2007年(平成19年)には他の蚕業文化財とともに「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産の暫定リストに記載された。2014年(平成26年)6月に世界遺産登録の可否が審議され、同年6月21日に日本の近代化遺産で初の世界遺産リスト登録物件となった。
歴史
建設決定まで

開国直後の日本では、生糸蚕種などの輸出が急速に伸びた。ことに生糸の輸出拡大の背景には、ヨーロッパにおける生糸の生産地であるフランスイタリア微粒子病[注釈 3]という蚕の病気が大流行し、ヨーロッパの養蚕業が壊滅的な打撃を被っていたことや[3]太平天国の乱によっての生糸輸出が振るわなくなっていたことなどが背景にあった[4]。その結果、1862年(文久2年)には日本からの輸出品の86%を生糸と蚕種が占めるまでになったが[5]、急激な需要の増大は粗製濫造を招き、日本の生糸の国際的評価の低落につながった[6][7]。また、イタリアの製糸業の回復も日本にとっては向かい風になり、日本製生糸の価格は1868年(明治元年)から下落に転じた[4]

明治政府には、外国商人などから器械製糸場建設の要望が出されており、エシュト・リリアンタール商会[注釈 4]からは資金提供の申し出まであった。これが直接的な引き金となって器械製糸工場建設が実現に向かうが[8]、政府内では外国資本を入れず、むしろ国策として器械製糸工場を建設すべきという意見が持ち上がり、1870年(明治3年)2月に器械製糸の官営模範工場建設が決定した[9][10]。これは粗製濫造問題への対応というよりも、従来の座繰りによる製糸では太さが揃わなかったために、経糸(たていと)よりも安価で取引される緯糸(よこいと)として使われることが多かった実態を踏まえ、その改良を志向した側面があったとも言われている[11]

同時に政府は器械製糸技術の導入を奨励しており[6]前橋藩では速水堅曹らが同じ年に藩営前橋製糸所を設立した。これは日本初の器械製糸工場と見なされているが[12]、イタリアで製糸業に従事した経験を持つスイス人ミュラーを雇い入れ、イタリア式の製糸器械を導入したものであり、当初は6人繰り、次いで12人繰りという小規模なものにとどまった[13][14]

大隈重信伊藤博文渋沢栄一は官営の器械製糸場建設のため、フランス公使館通訳アルベール・シャルル・デュ・ブスケおよびエシュト・リリアンタール商会横浜支店長ガイゼンハイマー (F. Geisenheimer) に、いわゆるお雇い外国人として適任者を紹介するように要請したところ、エシュト・リリアンタール商会横浜支店に生糸検査人として勤務していたポール・ブリューナ (Paul Brunat) の名が挙がった[15]。明治政府はブリューナが提出した詳細な「見込み書」の内容を吟味した上で、1870年(明治3年)6月に仮契約を結んだ[16]尾高惇忠

ブリューナは仮契約後すぐに尾高惇忠らを伴って、長野県群馬県埼玉県などを視察し、製糸場建設予定地の選定に入った。そして、明治3年閏10月7日(1870年11月29日)に民部大輔らと正式な雇用契約を取り交わすと[17]、同月17日(1870年12月9日)には富岡を建設地とすることを最終決定している[18]


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