富岡製糸場と絹産業遺産群
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富岡製糸場と
絹産業遺産群
日本

東置繭所
英名Tomioka Silk Mill and Related Sites
仏名Filature de soie de Tomioka et sites associes
面積7.20 ha (緩衝地域 415 ha)
登録区分文化遺産
文化区分遺跡
登録基準(2), (4)
登録年2014年
公式サイト世界遺産センター(英語)
地図
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富岡製糸場と絹産業遺産群(とみおかせいしじょうときぬさんぎょういさんぐん、Tomioka Silk Mill and Related Sites[1][注釈 1])は、群馬県富岡市富岡製糸場、および伊勢崎市藤岡市下仁田町の2市1町に点在する養蚕関連の史跡によって構成される文化遺産であり、2014年6月の第38回世界遺産委員会ドーハ)において、世界遺産として登録された[2]
概要

この世界遺産は2003年以降、推薦の動きが本格化した。もとは富岡製糸場を世界遺産に推す動きから始まったが、群馬県内の様々な養蚕業・製糸業の関連遺産、さらにそれらの流通を支えた鉄道などからも推薦候補が選定された。当初は4市3町1村の10件の文化財群で構成されていたが、世界遺産としての価値の証明の観点などから絞込みが行なわれ、最終的に、官営模範工場として開業し、日本の製糸業の発展に大きな影響を及ぼした富岡製糸場(富岡市)、「清涼育」と呼ばれる養蚕技術を確立し、養蚕農家の様式にも影響を与えた人物の住宅であった田島弥平旧宅伊勢崎市)、「清温育」と呼ばれる養蚕技術を確立し、蚕業学校によって知識や技術の普及を図った組織のありようを伝える高山社跡藤岡市)、冷涼な環境での蚕種貯蔵によって、春だけでなく夏から秋にかけての養蚕を可能にし、ひいては生糸生産量の増大にも貢献した荒船風穴下仁田町)という4件の構成資産が選定された。

既存の世界遺産には産業遺産も多く含まれるが、絹産業を価値の中心にすえた物件は存在せず、上記4物件が絹産業の技術交流や技術革新になした貢献は、世界遺産としての顕著な普遍的価値を備えているという判断からの推薦であり、2013年1月に世界遺産センターに正式な推薦書が受理された。

これに対し、世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は現地調査などを行った上で、2014年4月に「登録」を勧告した。この勧告に基づいて同年6月の第38回世界遺産委員会で審議され、正式登録された。
構成資産の歴史的背景富岡製糸場も参照のこと。なお、文中の太字は推薦されている構成資産もしくは当初推薦予定で見送られた物件を示す。薄根の大クワ冨沢家住宅赤岩地区の文化的景観

群馬県一帯は古くから養蚕業がさかんであり、沼田市には「薄根の大クワ」が残る。これは天然記念物に指定されている日本最大のヤマグワの木で、樹齢1500年[注釈 2]と言い伝えられている[3]。地元の人々からは神木として崇められてきた木で、養蚕業と地域の結びつきの深さを伝えている[4]。養蚕業は地域の住宅建築とも密接に結びついており、1792年ごろに建てられた冨沢家住宅(とみざわけじゅうたく。中之条町重要文化財)や、明治時代末葉から昭和初期に形成された赤岩地区養蚕農家群中之条町重要伝統的建造物群保存地区)などは古い養蚕農家の形式を伝えている。明治期の富岡製糸場外観

そんな群馬県に器械製糸の官営模範工場を建てることが決まったのは1870年のことであった[5]。富岡の地が選ばれたのは、周辺での養蚕業がさかんで原料の繭の調達がしやすいことなどが理由であり、建設に当たっては、元和年間に富岡を拓いた代官・中野七蔵が代官屋敷予定地として確保してあった土地が公有地(農地)として残されていたため、工場用地の一部として活用された[6]。フランス人ポール・ブリューナを雇い、フランスの製糸器械を導入した富岡製糸場は1872年におおよそが完成し、その年の内に操業が始まった[7]。一般向けにも公開されていたこの製糸場は、見物人たちに近代工業とはどのようなものかを具象化して知らしめた[8]。そして、全国から集められた工女たちは、一連の技術を習得した後、出身地に戻るなどして各地の器械製糸場で指導に当たり、その技術を地域に伝えることに大きく貢献した[9]。他方で、群馬では器械製糸はなかなか広まらなかった。その一因は伝統的な「座繰り」を基にした製糸が伸長していたことにあり、品質管理のために組合も組織されていた[10][11]。そうした組合の一つが甘楽社(かんらしゃ)であり、旧甘楽社小幡組倉庫(きゅうかんらしゃおばたぐみそうこ)は組合製糸の保管庫として使われていた倉庫である[12]

富岡製糸場の役割は単に技術面の貢献にとどまらず、近代的な工場制度を日本にもたらしたことも指摘されている[13]。富岡の工女たちの待遇は、『あゝ野麦峠』『女工哀史』などから想起されるような過酷なものではなく、特に当初はおおむね勤務時間も休日も整っていた[14][15][16]。そうした制度は、民間に伝播する中で、労働の監視や管理が強化されていき、富岡製糸場自体も民間への払い下げを経て、労働が強化されていく方向へと変化することになる[17]

さて、富岡製糸場が操業を開始したのと同じ1872年、養蚕技術について書かれた本としてはベストセラーになる1冊の本が刊行された。『養蚕新論』がそれであり、著者は島村(現伊勢崎市境島村)の養蚕農家、田島弥平であった[18][注釈 3]。田島弥平はその年に発足した蚕種販売業の島村勧業会社の副長(副社長)に就任した人物であるとともに、島村で普及していた「清涼育」の発案者であった[19]。清涼育とは蚕の育成法の一つで、蚕室の温度・湿度の変化が繭の質にも大きく影響する養蚕業にあって[20]、換気・通風をよくして蚕を育てる手法である[21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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