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をお願いします。(2022年9月)伏木富山港
空から見た富山新港
所在地
国 日本
所在地富山県高岡市、富山市、射水市
【伏木地区】高岡市
【富山地区】富山市
【新湊地区】射水市
詳細
管理者富山県
種類国際拠点港湾
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伏木富山港(ふしきとやまこう)は、富山県高岡市と富山市、射水市にわたる港湾の総称である。港湾管理者は富山県。
富山湾沿岸奥部の3つの港域によって形成されており、高岡市の伏木地区(伏木港)、富山市の富山地区(富山港)、射水市の新湊地区(富山新港)[1]の3地区が所在する[2][3][4]。
港湾法上の国際拠点港湾(北陸地方で唯一)[5]、港則法上の特定港に指定されているほか、日本海側拠点港のうち総合的拠点港と、部門別では国際海上コンテナ[注 1]。国際フェリー・国際RO-RO船、外航クルーズ(背後観光地クルーズ)の3部門の拠点港に指定されている。
概要港内に保存してある初代海王丸
富山湾岸に位置し、富山県および北陸地方の主要な港湾である。富山県を含む北陸工業地域、ひいては中華人民共和国、大韓民国、ロシアなど、環日本海圏の交易拠点として重要な役割を担っている。なかでも、ロシアとの輸出入がウェイトを占める港湾で、木材の輸入や中古車の輸出が盛んである[4]。ロシア向けの中古車の輸出は、日本の港湾において約6割のシェアを占め、輸出台数・金額ともに日本一となっている(2022年上半期、大阪税関調べ)[3]。
港一帯はみなとオアシスとして登録していて、伏木地区は伏木コミュニティセンターを代表施設とするみなとオアシス伏木として地域振興や交流を深めるためのコミュニティー施設となっている。また新湊地区は帆船海王丸を中核施設とするみなとオアシス海王丸パークとして観光スポットとなっている[8]。 室町時代から岩瀬湊として三津七湊の1つで、江戸時代には岩瀬(富山)・放生津(新湊)・伏木(高岡)は北前船(西回り廻船・北国廻船)の寄港地として栄える[注 2]。
中国定期コンテナ航路(神原汽船)
韓国定期コンテナ航路(興亜海運、高麗海運など)
2021年(令和3年)撮影の伏木富山港西側エリアの空中写真。2021年6月21日撮影の20枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
歴史
1621年(元和7年) - 東岩瀬港が加賀藩の積卸し港(河東七浦の一つ)に指定され、工事奉行の指揮下で港内整備が実施される[9]。
1875年(明治8年) - 地元廻船問屋の藤井能三の働きかけにより伏木港が岩崎弥太郎の三菱商会の汽船定期航路の寄港地となる。
1877年(明治10年) - 日本海側で最初の洋式灯台「伏木燈明台」が完成[注 3]。
1899年(明治32年)7月13日 - 伏木が開港場に指定される[注 3][7][10]。
1910年(明治43年) - 東岩瀬港の改修工事を開始。それまでは神通川から流出する土砂の堆積によって汽船や大型帆船の停泊が不可能となっていた[9]。
1921年(大正10年)5月 - 東岩瀬港が指定湾港となる[9]。
1926年(大正15年)6月18日 - 伏木港拡築工事の起工式を挙行[11]。
1928年(昭和3年)3月 - 東岩瀬港が神通川と分離される[9]。
1939年(昭和14年)3月29日 - 東岩瀬港が伏木港税関区域に編入され、伏木岩瀬港として開港場に指定される[9][12]。同年、県が「5,000万円大港湾計画」を作成(着工直前に戦争の影響で中止)[13][14]。なお、これを前後に1919年、1947年にも改修計画があった[15]。
1943年(昭和18年)1月 - 東岩瀬港が富山港と改称[9]。
1947年(昭和22年)6月16日 - 富山港改修大計画が発表される[16]。
1951年(昭和26年) - 伏木港と富山港が「伏木富山港」として統合し、重要港湾に指定される[7][17]。
1961年(昭和36年)9月15日 - 放生津潟にて富山新港の建設工事に着手[18][19][20]。