とみやま けい
富山 敬
プロフィール
本名冨山 邦親(とみやま くにちか)[1][2]
愛称敬さん[3]
性別男性
出生地 満洲国 奉天省鞍山
(現:中華人民共和国 遼寧省鞍山市)[2][4][5]
出身地 日本・東京都世田谷区[2]
死没地 日本・東京都新宿区[1]
生年月日 (1938-10-31) 1938年10月31日
没年月日 (1995-09-25) 1995年9月25日(56歳没)
血液型A型[注釈 1][6][7]
職業声優、俳優、歌手
事務所ぷろだくしょんバオバブ(最終)[5][8]
配偶者あり[4](1993年死別)
公称サイズ(時期不明)[8]
身長 / 体重162 cm / 48 kg
声優活動
活動期間1957年 - 1995年
ジャンルアニメ、吹き替え、ナレーション
デビュー作竹丸(『源九郎物語』)[9]
俳優活動
活動期間1955年 - 1995年
ジャンルテレビドラマ、舞台
デビュー作海賊クロ次(『金の鶯』)[2]
声優:テンプレート | プロジェクト | カテゴリ
富山 敬(とみやま けい、1938年〈昭和13年〉10月31日[2][4][6][10] - 1995年〈平成7年〉9月25日[2][6][11])は、日本の声優、俳優、歌手。ぷろだくしょんバオバブ最終所属[5][8]。
幅広い役をこなす実力者で、特に昭和においては「声優ブームの中心的存在」と評されるなど人気を博した声優の一人であった[2][4][12]。代表作は、『宇宙戦艦ヤマト』の古代進役や『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリー役など[5][13]。 満洲国奉天省鞍山出身[2][4][5]。弟が2人いたが、それぞれ事故、栄養失調で亡くしたという[4]。終戦に伴い宮崎県へ引揚後、本籍地の東京都世田谷区で育つ[2][14]。 中学時代の頃から演劇部に所属するなど“演劇少年”だったといい[4]、正則高等学校在学時も演劇部に所属し熱中[2][14]。より高みを目指したことで、高校2年だった1955年に東宝児童劇団に飛び込む[2][4][10][14]。水沢草田夫作『金の鶯』の海賊クロ次役で初舞台[2]。約3年間の活動を経て、児童劇に限界を感じ退団した後は、日本大学芸術学部演劇科へ進学する[2][4][14]。 その後「学校の勉強と実際に芝居することは違う」と感じたため、劇団葦の研修生となったことを機に大学は2年で中退[10][14]。だが、劇団葦は入団から約2年後に解散[10][14]となったため、しばらくは他の劇団の入団試験を受けながら、それまで以上に日銭が得られる仕事(バーテンダー、キャバレーのボーイに呼び込み、サンドイッチマンなど)を何でも行う生活を送ったという[2]。 1957年、東北放送のラジオドラマ『源九郎物語』の竹丸役で声優デビュー[9]。当時、声優業は俳優たちの副業であり、富山自身も最初は芝居や生活の資金稼ぎのため行っていた[4][10]。 1965年、東京都新宿区四谷の喫茶店でウェイターをしていたが、店に入った劇団葦時代の先輩であった千葉順二の誘いで河の会へ所属[2]。当時の河の会が吹き替え出演などマスコミ関係の仕事が主体だったことで、富山も声優業を本格的に始めることとなった。
生涯
生い立ち
初期のキャリア
声優として
Size:236 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef