富山市立奥田中学校いじめ自殺事件
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富山市立奥田中学校いじめ自殺事件(とやましりつおくだちゅうがっこういじめじさつじけん)[1][2]は、1988年昭和63年)12月21日富山県富山市富山市立奥田中学校1年の女子生徒A(当時13歳)が、いじめを苦に自宅アパート4階から飛び降り自殺した事件[3][4]。遺書には加害者の実名を列挙した上で「もうだれもいじめないで…」と書き残されていた[5]

Aの両親の岩脇 克己と壽恵は、同級生らの大学進学を見計らった1994年平成6年)以降に開示請求などの活動を開始し[6]1996年(平成8年)には富山市に対し損害賠償請求訴訟を起こしたが、一審・二審共に棄却された[7]。事件後、両親の支援者らにより「『もう、ひとりにはさせないよ!』の会」が設立されたほか[8]、事件を題材としたルポルタージュ、手記、児童書など、複数の書籍が出版されている[9][10]
経緯富山市立奥田中学校(2018年)

A(当時13歳/中学1年生)は1975年(昭和50年)12月17日、岩脇 克己(いわわき かつみ[11]1940年〈昭和15年〉11月12日 - 2019年令和元年〉6月20日[12][注 1]と岩脇 壽恵(いわわき としえ[11]1943年〈昭和18年〉6月9日 - )[注 2]の一人娘として生まれた[13]。免疫症候群IgA欠損症を患う病弱な身体で、2歳から5歳頃までは入退院を繰り返した[16][注 3]

1988年(昭和63年)4月、Aは富山市立奥田中学校に入学。この春に担任教諭が家庭訪問した際に両親は、Aが免疫症候群IgA欠損症で、幼稚園児の頃から風邪や発熱を起こしやすく、喘息や肺炎にも時折かかったこと、膀胱が小さいため腎盂炎を生じることもある旨を説明し、学校生活での配慮を求めている[17]

当時の奥田中は生徒数1,336人のマンモス校で、クラス別の成績競争を行うなどの有名受験校として知られる一方[18]、県内では「荒れた学校」の代名詞でもあった。1981年(昭和56年)5月には3年生の男子生徒数人が「制服を汚した」と教師4人に怪我を負わせる事件が、1984年(昭和59年)には3年生の女子生徒の間で集団リンチ事件が起こり、後者の事件では警察沙汰となっている。これらの校内暴力はAの入学時には減っていたが、Aの自殺の翌年である1989年(昭和64年/平成元年)にも、サッカー部の3年生が2年生を空き家に連れ込み、暴力を振るうという事件が発覚していた[19]

校則が厳しいことでも知られ、髪の毛やスカートの長さ・雨傘の色・ソックスの色や柄などが取り決められており、教科書は学校に忘れると没収され、返却も許されなかった[18]1987年(昭和62年)5月には、修学旅行富山駅からの発車直後、車内で荷物検査を行い、生徒から色柄もののパンツを全て没収したことから、人権問題に発展している[19]。一方で前述のように学校は荒れており、不登校児童の発生率も、全国でトップクラスに属した[18]
2度の転倒事故

Aは入学後、3人の友人B[注 4]、C[注 5]、D[注 6]を作っている。同級生のBは登校拒否児、Cは病弱でいじめられており、どちらもクラスの中の少数派だった[20]

入学後、Aは何かと理由をつけて職員室で過ごすことが多く、休み時間には大抵職員室で担任教諭と話し込んでいた。のちに壽恵は「体が弱かったせいで、もし何かあったら先生に相談しなさい、先生は何でも知ってるんだから、頼りにしている人なんだからと、私が口ぐせにしていたせいかもしれません」と語っている。こうしたAの行動は、生徒たちから、自分たちのことを密告しているのではないかと疑われる原因になり、また同級生らは免疫不全症のことを知らなかったため、体育の授業を休みがちであることも白眼視される原因となった[24]

5月下旬頃[25]、または6月初旬に、AはCと共に校舎の廊下を歩いていた際、上級生の男子生徒2人に足をかけられて転倒、両足首を捻挫している[24][25]。翌日に二人は職員室で担任教諭に相談し、担任が見せた生徒指導用アルバムから加害者を特定し、担任に伝えた。しかし注意がなされることはなく[25]、加害者が謝りに来ることもなかった[24]

更に6月27日には、学校で開催されたスポーツフェスティバルの開会式中に雨が降り出し、生徒たちが一斉に校舎に向かって駆け出した際、Aは後ろから走ってきた生徒に勢いよく突き当たられ転倒、今度は右鎖骨を骨折した[26]

翌28日に担任教諭がA宅を訪問。この2度に渡る事件に対し、両親は加害生徒を特定して事情聴取すること、内容によっては謝罪するよう指導を行うなどの適切な措置を取るように申し入れた。担任教諭はこれに対し「誰がやったかわからない」と答えている[26]。その後も、両親は当該生徒を探し出して謝罪させることを何度も申し入れたが、学校側の返答は「分かりました」だけで、指導がされることはなかった。この事故は学校災害共済給付制度の対象として治療費が給付されたが、最期まで完治することはなかった[27]

また骨折後、鎖骨部位に湿布を貼付していたAに対し「湿布が臭い」などと言う生徒がいた[26]
担任に相談

9月27日頃、AはCに同行してもらって担任教諭のもとを訪れ、クラスの6名程度の女子生徒が、自分を無視したり悪口を言ったりすることを告げて相談している。担任教諭は「いじめかもしれない」と考え、以前から仲の良かったCに相談に乗ってもらうように言い、またいじめられたらすぐに自分へ知らせるように指導している[25][26]

9月末から10月初め頃、Aはクラスメイトの生徒数名が、教室で自分のほうを見ながら紙に何か書いているのを見て気になり、その後教室のごみ箱を探したところ、「A死ぬことにさんせい、殺すことにさんせい」と書かれたメモを見つけた[26]。Aから持ち帰ったメモを見せられた壽恵は興奮し、すぐに担任に会いに行こうとしたが、「お母さん、行かんでいい、行かんでいい」とAに制止され、自分でメモを担任に渡し、注意してもらえるよう伝えるように言い渡した[28]

のちの担任教諭の証言によれば、筆跡から、数日前にAが悪口を言われる旨を訴えていた女子生徒のうち2人が書いたものがわかったため、Aに対するいじめが行われていることを認識し、自身でいじめの現場を押さえて指導することを決めたという。しかし、その後どのような措置が行われたのか、両親への説明はなかった[29]。一方で壽恵は数日後にAへこの件について尋ね、Aは「(担任が)いじめたグループを呼んで叱ってくれたよ」「もう、その子たちと仲良くなったから心配しなくていいよ」と明るく答えたため、その後はそれほど気には留めなかった[28][注 7]

夏休み中は鎖骨骨折のため、奥飛?に家族で旅行したほかは殆ど家の中で過ごしていたが、親しい友人が2日おきにAを訪ねてき、非常に仲良く過ごしている様子であったという[30]
10月

10月初旬頃、清掃の反省会の際にたまたまAのロッカーの前に立っていた女子生徒が、「キャー」と奇声を上げてその場から逃げるという出来事があった。担任教諭は奇声を上げた理由を女子生徒に訊いた上で、Aに対する嫌悪感をあらわにした思いやりのない行為であると注意し、指導している[29]

同月中旬頃には、Aは給食の牛乳パックにサインペンなどで「大凶」「ハズレ」などと落書きをされていた。Aから訴えを受けた担任教諭は、Aがいじめを訴えていたグループの生徒が、牛乳パックの底に「アタリ」「ハズレ」などと書いていたのを見つけ、これがAに対するいじめの手段として使われているに違いないと考え、その場でクラスの生徒全員の前で、牛乳パックへの落書きの一切をやめるよう指導した。これ以降、牛乳パックへの落書きはなくなったとされる[29]

しかし同月下旬、Aは今度は「ゲロ」「でぶ」などと書かれたメモを拾い、担任教諭に渡している。担任教諭は、筆跡やこれまでの経緯から、女子生徒Cらのグループのものが書いたものと考えた。しかし告げ口をしたとしてAへのいじめが悪化する虞があることを考え、メモは担任が拾ったことにして、クラス全員に対して「書いた人は遊びのつもりでも、書かれた人は傷つく」と注意した。そしてこれ以降、いじめ問題についてクラスで考えていくこととした[31]

また10月30日頃には担任教諭は、Aの気を晴らすためと新たな友達を作るチャンスを与えるために、富山市内の他の市立中学校で行われた女子サッカーの交歓会にAを誘っている[32]
Cとの絶交

いじめ問題についてクラス全体で考えていく方針を定めた担任教諭は、11月から12月にかけ、道徳の時間に思いやりの心を育てるための資料を用い、いじめ問題に関連づけて考えさせるようにしたり、始業時や終業時の学級活動の時間にも、いじめに繋がりそうな出来事がある場合には、その都度クラス全員に注意を行った[32]

しかしこの頃に担任教諭は、Aが親しかったCと喧嘩し、絶交したということを耳にしている[32]。絶交が行われたのは10月下旬頃のことで、のちにCは裁判の陳述書で、「ケンカというより、私が一方的に怒っただけでした。××から言われたある事が、私が怒った原因でした。…私はAに確かめました。Aは絶対に××にも誰にも言っていないと言いました。私は、Aの言うことを信じてあげる事ができませんでした。その時、私の心の中に、Aといなければ自分もいじめられないで済むという思いがあったのだと思います」と証言している。この出来事によってAの孤立は決定的となり、それまでCと共に受けていたいじめを、一人で引き受けることとなった[25]


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