富山城
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この項目では、越中国(富山県富山市)の城について説明しています。備前国(岡山県岡山市)の城については「富山城 (備前国)」をご覧ください。

logo富山城
富山県
富山市郷土博物館(模擬天守)
別名安住城、浮城
城郭構造梯郭式平城
天守構造不明
模擬天守/複合連結式望楼型3重4階(天守)2重2階(小天守)
(1954年 RC造
築城主神保長職水越勝重?
築城年1543年天文12年)
主な改修者佐々成政前田利長前田利次
主な城主神保氏、飯田氏・小島氏など(上杉氏)、佐々氏、津田氏、前田氏
廃城年1871年明治4年)
遺構石垣、堀
指定文化財未指定
登録文化財国の登録有形文化財
富山市郷土博物館
再建造物模擬天守
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度41分35.83秒 東経137度12分39.18秒 / 北緯36.6932861度 東経137.2108833度 / 36.6932861; 137.2108833座標: 北緯36度41分35.83秒 東経137度12分39.18秒 / 北緯36.6932861度 東経137.2108833度 / 36.6932861; 137.2108833
地図 .mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}富山城
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赤.富山城、青.富山駅、黒線.富山軌道線

桜と富山市郷土博物館千歳御門櫓を模した建物の富山市佐藤記念美術館富山城址公園と富山市郷土博物館富山城の夜景古絵図

富山城(とやまじょう)は、越中国新川郡富山(現在の富山県富山市丸の内)にあった日本の城平城)。「浮城(うきしろ)」「安住城(あずみじょう)」ともいわれた(ただし、安住城は富山城とは別の城であるとする説もある)。続日本100名城の一つである。とやま城郭カードNo.16[1][2]
概要

加賀前田家の分家であった越中前田家の居城。神通川(現在の松川)の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見え、「浮城」の異名をとり、難攻と言われた。当時の神通川は富山城の辺りで東に大きく蛇行しており、その南岸に富山城は築かれた。現在、本丸と西の丸の一部が残り、富山城址公園となっている。富山は北陸街道飛騨街道が交わる越中の交通の要衝であった。
歴史・沿革
中世

室町時代越中守護三管領畠山氏であったが越中には来任せず、東部を椎名氏、西部を神保氏守護代として治めさせていた。
戦国時代詳細は「越中の戦国時代」を参照

富山城は1543年天文12年)頃に越中東部のおよび新川郡への進出をもくろむ神保長職(じんぼう ながもと)が、椎名氏の支配地であった神通川東岸の安住郷に家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)に命じて築城したとされる[3]

しかし最近の発掘調査により室町時代前期の遺構が発見され、創建時期はさらにさかのぼると考えられている。また、神保氏時代の富山城は今の場所ではなく、約1キロメートル南方の小高い所(現在の富山市星井町付近)にあったとする説もあったが、この発掘結果によってほぼ現在の位置にあったことが明らかとなった[4]。なお、天文年間(16世紀中期)の名称を「安住の館(あずみのやかた)」とする研究者もいる[5]が、安住の館=安住城は富山城の近隣に存在した別の城を指していたとする説もある[6]

慶長年間以前に成立したことが確実な『富山之記』という往来物には、神保氏時代の富山城と城下の発展の様子がくわしく書かれており、中世富山城を知るための貴重な史料となっている。
永禄3年の上杉謙信の越中出兵

神保長職永禄3年(1560年)、椎名氏を支援する上杉謙信の攻撃により富山城に火をかけ逃亡[7]。長職は増山城に逃れて抵抗したものの、1562年(永禄5年)上杉氏に降伏し、射水・婦負二郡の支配権は認められる(砺波郡は長職の増山城での在城が認められたが、城将として吉江宗信などが入る)。
永禄11年の上杉謙信の越中介入

永禄11年(1568年)、神保長職の子の神保長住は親上杉氏の父から離反し、越中を追われる[8]
永禄12年の上杉謙信の越中出兵

永禄12年(1569年)、椎名康胤越中一向一揆連合軍が上杉氏主力が撤退した後に富山城を奪う。
上杉謙信の死去と織田家の侵攻

天正6年(1578年)、上杉謙信の急死を契機として神保長住織田信長から佐々長穐らの兵を与えられて、月岡野の戦い河田長親椎名小四郎上杉氏の越中衆に勝ち、大勝城、富山城に再び入城した。
佐々成政が越中を統一

1582年(天正10年)3月、神保長住上杉氏についた小島職鎮唐人親広らに富山城を急襲され、城内に幽閉されて失脚し[9] 、替わって富山城主となったのが、佐々成政である。

ただし織田信長佐々成政越中に封じた時期については、前年2月の上杉氏による小出城攻囲への救援の功を賞して天正9年に既になされていたとする説がある。なお、越中一向一揆織田氏と富山城の争奪戦を繰り広げた上杉氏では、天正年間の一時期、富山城のことを「安城」と呼称していたとする古くからの説があるが、近年の研究では否定的である[10][11]。また、先に述べた安住の館(安住城)の略称が「安城」であったとする説もある(富山城と安住の館を同一と考えれば安城も富山城のことを指すが、別々の城を指しているとすれば当然両者は無関係となる)[6]
桃山時代?富山城の破却と再建

富山城に拠点を構えた佐々成政は富山城の大規模な改修を行った。


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