富寧郡位置
各種表記
チョソングル:???
漢字:富寧郡
日本語読み仮名:ふねいぐん
片仮名転写:プリョン=グン
ローマ字転写 (MR):Pury?ng kun
統計
行政
国: 朝鮮民主主義人民共和国
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富寧郡(プリョンぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道に属する郡。鉱業が盛んである。 内陸に位置し、東から南に清津市、北に会寧市、西に茂山郡と接する。 植民地期までの富寧郡は、現在の清津市の大部分を含み、海に面した大きな郡であった。 三国時代には高句麗の領域で、のちに渤海国がこの地を治めた。渤海の東京龍原府はこの付近(現在の清津市富居里)に置かれていたと考えられている。 渤海の滅亡後は女真族の領域となり、高麗・李氏朝鮮と女真族との抗争の地となった。高麗末には石幕城と称された。李氏朝鮮王朝の世宗は、この地に六鎮の一つ・寧北鎮を置いた。大韓帝国期に富寧郡の一部であった清津が開港地となる。植民地期には咸鏡北道に属した。 この節の出典[1]
目次
1 地理
2 歴史
2.1 年表
2.1.1 富寧郡(第1次)
2.1.2 富寧区域(第1次)
2.1.3 富寧郡(第2次)
2.1.4 富寧区域(第2次)
2.1.5 富寧郡(第3次)
3 下部行政区画
3.1 沿革
4 交通
5 脚注
6 外部リンク
地理
歴史
年表
富寧郡(第1次)
1398年 - 石幕城と称される。
1431年 - 石幕城に寧北鎮が設置され、節制使が鏡城郡を兼ねた。
1449年 - 富居県を廃して民戸を石幕城に移し、富寧と改称する。のちに都護府に昇格した。
1895年 - 富寧郡となる。
1908年 - 清津が開港地となる。
1910年 - 清津府に編入される。
1914年4月1日 - 郡面併合により、咸鏡北道清津府の大部分(青下面の一部を除く)、会寧郡の一部(観海面)が合併し、富寧郡が発足。富寧郡に以下の面が成立。(8面)
下茂山面・西上面・石幕面・青岩面・連川面・富居面・三海面・観海面
1939年 - 青岩面の一部が清津府に編入。(8面)
1943年10月1日 (8面)
下茂山面が富寧面に改称。
青岩面の一部が清津府に編入。
1945年(光復直後) (8面)
清津府の一部が石幕面に編入。
青岩面の一部が清津市に編入。
1949年 (5面)
連川面・富居面・三海面・観海面が新設の羅津郡に編入。
清津市の一部が分立し、輸城面が発足。
1950年 - 清津市の一部が青岩面に編入。(5面)
1952年12月 - 郡面里統廃合により、咸鏡北道富寧郡青岩面・富寧面・石幕面および輸城面・西上面の各一部、羅津郡連川面および富居面の一部地域をもって、富寧郡を設置。富寧郡に以下の邑・里が成立。(1邑18里)
富寧邑・連川里・石幕里・最賢里・兄弟里・金降里・橋院里・麻田里・連津里・倉坪里・沙口里・稷下里・沙河里・南夕里・芹洞里・舞袖里・古茂山里・旧邑里・土幕里
1952年末 - 古茂山里が古茂山労働者区に昇格。(1邑1労働者区17里)
1954年10月 (1邑2労働者区17里)
富寧邑の一部が分立し、松谷里が発足。
芹洞里の一部が富寧邑に編入。
旧邑里が旧邑労働者区に昇格。
1960年10月 - 富寧郡廃止。
古茂山労働者区・旧邑労働者区・石幕里・沙河里・金降里・兄弟里・最賢里・舞袖里・倉坪里が新設の清津市富寧区域に編入。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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