富士
EF66牽引 寝台特急「富士」
概要
国 日本
種類特別急行列車
現況廃止
地域東京都・神奈川県・静岡県・愛知県・岐阜県・滋賀県・京都府・大阪府・兵庫県・岡山県・広島県・山口県・福岡県・大分県
運行開始1964年10月1日
運行終了2009年3月13日
運営者日本国有鉄道(国鉄) →
東日本旅客鉄道(JR東日本)
東海旅客鉄道(JR東海)
西日本旅客鉄道(JR西日本)
九州旅客鉄道(JR九州)
路線
起点東京駅
終点大分駅
営業距離1262.3km(東京 - 大分間)
運行間隔1往復
列車番号1・2(東京 - 門司間)
41・42(門司 - 大分間)
使用路線JR東日本:東海道本線(東海道線 (JR東日本))
JR東海:東海道本線(東海道線 (静岡地区)・東海道線 (名古屋地区))
JR西日本:東海道本線(琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線)・山陽本線(一部JR神戸線)
JR九州:山陽本線・鹿児島本線・日豊本線
車内サービス
クラス
富士(ふじ)は、九州旅客鉄道(JR九州)、西日本旅客鉄道(JR西日本)、東日本旅客鉄道(JR東日本)、東海旅客鉄道(JR東海)が東京駅 - 大分駅間を東海道本線・山陽本線・日豊本線経由で、2009年3月14日のダイヤ改正まで運行していた寝台特急列車(ブルートレイン)である。なお、同日のダイヤ改正で併結する「はやぶさ」とともに廃止された[1][2][3]。
なお本項では、「富士」としての名称の沿革と、東京と九州東部を日豊本線経由で運行されていた夜行列車の沿革についても記述する。 1964年10月1日に東京 - 大分間で運行を開始した。翌年10月には日豊本線経由で西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)まで延長し、東京 - 西鹿児島間1,574.2kmを24時間以上かけて運行する日本最長運転の定期旅客列車となった[4]。1980年10月には運行区間を宮崎駅までに短縮、1990年3月には南宮崎駅までに変更されたが、利用者の減少が続き、1997年11月には大分駅まで短縮された。2005年3月には東京 - 門司間で「はやぶさ」との併結運転を開始したが、運行後期は乗車率が低迷し[5] JR九州によると2007年度の平均乗車率は約20%(1989年時点と比べ約4分の1)[6]、1日の平均利用者は百数十人にまで減少し[7]、2009年3月14日に「はやぶさ」とともに廃止された。 列車名の由来は日本を代表する富士山とされるが、1929年(昭和4年)9月に鉄道省が公募により初めて列車愛称を命名したもので、「日本最古の列車愛称」でもある。 「富士」の愛称は、戦後に復活して以来、1964年10月1日国鉄ダイヤ改正まで四国連絡を含む東海道本線の電車特急で使用されていた。 列車番号は下りが 1、上りが 2 として全区間運行された。 東京駅 - 横浜駅 - 熱海駅 - 沼津駅 - 富士駅 - 静岡駅 - 浜松駅 - (豊橋駅) - 名古屋駅 - (岐阜駅) - (京都駅) - (大阪駅) - [岡山駅] - [福山駅] - [尾道駅] - 広島駅 - 岩国駅 - 柳井駅 - 下松駅 - 徳山駅 - 防府駅 - 新山口駅 - 宇部駅 - 下関駅 - 門司駅 - 小倉駅 - 行橋駅 - 中津駅 - 宇佐駅 - 別府駅 - 大分駅 このほか、下り列車は米原駅・姫路駅・岡山駅・杵築駅、上り列車は大阪駅・米原駅で運転停車をおこなっていた。なお、上りは中津駅で「ソニック」48号、下りは杵築駅で「ソニック」9号の待避を行っていた。 なお、大幅な遅延などで品川駅止まりとなった場合は小田原駅に臨時停車し、小田原 - 品川間は東海道貨物線経由での運転となり横浜駅は経由しなかった。 2005年3月15日以降、廃止までの編成図表・編 号車123456789101112 「スハネフ14 (15) 形 - オロネ15形3000番台 - オハネ15形2000番台 - オハネ15形 - オハネ15形 - スハネフ14 (15) 形」1編成を上り「はやぶさ」 → 下り「富士」 → 上り「富士」 → 下り「はやぶさ」とする運用を組み合わせる形で使用されていた。 「富士」「はやぶさ」に使用された14系の製造時の形式は、14系14形が5両(スハネフ14形0番台)、14系15形が9両(スハネフ15形、オハネ15形0番台)、24系24形が1両(オハネフ24形を改造したスハネフ14 101)、24系25形が16両(オロネ15形3000番台、オハネ15形2000番台、オハネ15形1100番台)と20系を除く旧国鉄が設計・製造した寝台特急用客車の全形式にわたった。 このため、銀帯の車両が多数派となっているが、もともと白帯であるスハネフ14形に加え、更新改造時にステンレスによる銀帯を白帯塗装に変更した15形車両も存在するため、帯の色が統一された編成となることはほとんどなかった。運行廃止直前の時点では、スハネフ14形、スハネフ15形の一部、オハネ15形1100番台が白帯、スハネフ15形の一部、オハネ15形0番台、オハネ15形2000番台、オロネ15形3000番台が銀帯となっていた。「富士」「はやぶさ」に使用されていた14系客車 牽引機関車は、東京 - 下関間を西日本旅客鉄道(JR西日本)の下関地域鉄道部下関車両管理室に所属していたEF66形電気機関車を使用し、下関 - 門司間ではJR九州の大分鉄道事業部大分車両センターに所属するEF81形電気機関車、門司 - 大分間は同センターに所属するED76形電気機関車が使用されていた。
概要
列車名の由来「富士」ヘッドマーク客車の最後尾とテールマーク
廃止直前の運行概況
停車駅
(000)は下りのみ停車、[000]は上りのみ停車
下りの下松 → 大分間では、乗車券と立席特急券でB寝台に乗車することが可能であった。
使用車両・編成
富士・はやぶさ
← 大分・熊本東京 →
座席種類BA1B1B B B BA1B1B B B
形式スハネフ
14形[* 1]オロネ15形
3000番台オハネ15形
2000番台オハネ15形オハネ15形スハネフ
14形[* 1]スハネフ
14形[* 1]オロネ15形
3000番台オハネ15形
2000番台オハネ15形オハネ15形スハネフ
14形[* 1]
下り「はやぶさ」「富士」
上り「富士」「はやぶさ」
^ a b c d スハネフ14形はスハネフ15形の場合もある。
凡例
A1=A寝台1人用個室寝台「シングルデラックス」B1=B寝台1人用個室寝台「ソロ」B=開放式B寝台=禁煙車
担当乗務員区所
車掌
東京 - 下関間…JR西日本下関地域鉄道部下関乗務員センター
下関 - 大分間…JR九州大分鉄道事業部大分車掌センター
運転士は各旅客会社が自社区間を担当[8]。
沿革「東海道本線優等列車沿革」および「山陽本線優等列車沿革」も参照
寝台特急以前の「富士」
戦前・日本初 特別急行1・2列車「富士」1列車「富士」
(1936年8月4日)
1912年(明治45年)6月15日:新橋(駅の位置的には汐留に相当) - 下関間に、一・二等車のみで編成された日本初の特別急行列車として1・2列車が運行開始。最後尾には一等展望車を連結。運行当時より1・2列車の終着駅であった下関市から日本領朝鮮の釜山へ鉄道省による鉄道連絡船の関釜航路が運航されており、そこから先の朝鮮総督府鉄道と連絡し、中華民国内とシベリア鉄道を経由して、パリ(フランス)からロンドン(イギリス)に至るまでの国際連絡運輸が行われていた。1・2列車はその一翼を担うことにもなるため日本の威信をかけ、当時の最高水準ともいえる設備とサービスを有していた。ソファや本棚が置かれ、一角には貴賓・高官用の特別室を設けた展望車を連結したほか他の当時の多くの列車の食堂車が「和食堂車」であったのに対して1・2列車は高貴な「洋食堂車」を連結していたことなどがその例といえる[注 1]。
1914年(大正3年)12月20日:東京駅の開業に伴い、1・2列車は東京駅発着に変更。
1926年(大正15年)9月23日:海田市駅付近の集中豪雨に伴う土砂崩壊により1列車が脱線転覆するいわゆる山陽本線特急列車脱線事故が発生。乗客には社会的地位の高い者が多く、多数の死傷者を出したことから強度に優れる客車の鋼製化を促す契機となった。
1927年(昭和2年)8月1日:1・2列車は山陽本線内を夜間に通過する関係から一等展望車の連結区間が東京 - 神戸間に短縮され、神戸駅で切り離された一等展望車は山陽本線内を昼間に通過する急行7・8列車の京都 - 下関間で使用することとなった[9]。