富士錦猛光
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富士錦 章


基礎情報
四股名渡辺 章→冨士錦 章→冨士錦 昇→冨士錦 章→富士錦 章
本名一宮 章
愛称平和ちゃん[1]
生年月日1937年3月18日
没年月日 (2003-12-17) 2003年12月17日(66歳没)
出身 日本山梨県甲府市
身長175cm
体重136kg
BMI44.41
所属部屋高砂部屋
得意技突き、押し
成績
現在の番付引退
最高位東小結
生涯戦歴574勝559敗5休(86場所)
幕内戦歴414勝466敗5休(59場所)
優勝幕内最高優勝1回
幕下優勝1回
殊勲賞2回
敢闘賞4回
技能賞1回
データ
初土俵1953年3月場所
入幕1959年1月場所
引退1968年11月場所
備考
金星7個(若乃花1個、栃ノ海3個、柏戸2個、佐田の山1個)
2012年12月25日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

富士錦 章(ふじにしき あきら、1937年3月18日 - 2003年12月17日)は、山梨県甲府市出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は一宮 章(旧姓は渡辺)。身長175cm、体重136kg。得意手は突き、押し。最高位は東小結。長男はプロレスラー一宮章一、次男は元横綱朝青龍のマネージャーの一宮章広。その風貌と優しく穏やかな性格から、「平和ちゃん」の愛称で親しまれた[2][1]
来歴

小学生の頃に相撲を初め、当初は嫌々だったが強くなり、中学生の時には県大会で優勝、高校1年で国体に出場するなどの実績を残した。

1952年(昭和27年)夏に砂一門が巡業に来た際に勧誘され後に4代目親方(元横綱前田山)から直々に勧誘されて入門を決意、1953年(昭和28年)3月場所初土俵[1]

四股名は入門当初に目を掛けてくれた砂部屋の横綱東富士の『富士』を頂戴して命名した。立合いに頭で当たって遮二無二行う突き押しが強かったが四つに組むと脆かった[1]。一時期右で前ミツを取って出し投げを打っていたが、富士錦自体上背が無いためそれを行うと自分の体が浮いて上手くいかず、周囲にも怒られたためやらなくなった[3]

1959年1月場所新入幕[1]。この場所は5勝10敗と大敗し十両に陥落。しかし1場所で返り咲きそれ以降は平幕上位に定着する。1963年(昭和38年)の7月場所中に母を亡くしたが奮起し、不振とはいえ2大関豊山栃ノ海)を倒して9勝6敗の成績を挙げ殊勲賞を獲得した。

1964年(昭和39年)、母の1周忌を済ませて臨んだ7月場所は誰しもが驚く絶好調、大鵬[注釈 1]柏戸の二横綱が休場不在とはいえ、豊山、佐田の山ら4人の大関を差し置いて14勝1敗の好成績を挙げて優勝した。千秋楽では激しく突き合い強敵の西関脇北の富士突っ張りにひるまず、相手の出足を止めると一瞬の隙を見て左から叩き込んだ[4][5]。上位での番付運に恵まれず小結で勝ち越すこと3回、さらに14勝1敗の好成績での優勝までありながら、関脇にはなれなかったが実力は関脇と認められている[1]。史上初の最高位が小結の優勝力士になった[注釈 2]。3横綱の内2人が休場し、平幕が優勝を果たした例としても、戦後15日制下ではこれが第1号となった[6]

1968年(昭和43年)11月場所は1勝14敗と大敗して現役を引退、年寄西岩を襲名。後に尾上と名跡を改め、砂部屋付き年寄として高見山らを厳しく指導し[1]審判委員を務めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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