富士銀行
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この項目では、みずほ銀行の前身について説明しています。

1904年に市川銀行に改称した銀行については「市川文蔵」をご覧ください。

1928年に駿河銀行に合併した銀行については「スルガ銀行」をご覧ください。

株式会社富士銀行
The Fuji Bank, Limited
富士銀行本店(2009年に解体)
種類株式会社
市場情報東証1部 8317
1949年5月16日 - 2000年9月22日大証1部(廃止) 8317
1949年5月16日 - 2000年9月22日札証 8317
1950年4月1日 - 2000年9月22日京証 8317
1949年8月 - 2000年9月22日
略称富士銀、FBK
本社所在地 日本
100-0004
東京都千代田区大手町一丁目5番5号
設立1923年7月11日[1]
(株式会社保善銀行)
創業は1880年1月[2]
(初代 安田銀行)
金融機関コード0003
SWIFTコードFUJIJPJT
代表者山本惠朗(頭取)
資本金1兆395億円
売上高9343億円
総資産62兆5768億円
従業員数12,940人
関係する人物安田善次郎(創業者)
外部リンクみずほフィナンシャルグループ 富士銀行 公式サイト
インターネットアーカイブ
特記事項:すべて2001年(平成13年)3月時点の情報、経営指標は2001年3月期連結決算[2]
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株式会社富士銀行(ふじぎんこう、英称: The Fuji Bank, Limited)は、かつて東京都千代田区大手町に存在した日本都市銀行。現みずほ銀行の前身のひとつ。2000年よりみずほホールディングス2003年よりみずほフィナンシャルグループの傘下に入った。英略は「FBK」。芙蓉グループの中核企業[注 1]。通称「都銀の雄」。

この項目では同行の前身である安田財閥の安田銀行についても説明する。
歴史
戦前 - 安田銀行 初代頭取安田善次郎 旧富士銀行(安田銀行)横浜支店1929年建築(横浜市認定歴史的建造物

1864年安田財閥の創始者・安田善次郎は江戸日本橋乗物町(現在の東京都中央区日本橋堀留町)に露天の乾物商兼両替商・安田屋を開業した。2年後の1866年には日本橋小舟町へ移り安田商店と改称。発足したばかりでまだ信用力のない明治新政府の不換紙幣公債を率先して引き受け、その流通に積極的に協力。1870年に正金金札等価通用布告がなされると、これらを額面引き換えし更なる巨万の利益を得ることになる。

1876年、この強固な資本を基盤に川崎八右衛門と共に日本橋小舟町に第三国立銀行を開業。また1880年には、本体の安田商店を合本安田銀行に改組した。こうして資本金20万円、従業員31人、店鋪数3をもって銀行としての歴史が始まった。明治の日本にあって、安田銀行は鉄道・築港などの大規模公共事業に資金を提供し、政府や自治体からの信頼を厚くする。そして、当時の東京府東京市や大阪府大阪市の二府もその中に含まれ、その後の富士銀行の本金庫業務(指定金融機関)としての地位、「公金の安田」の名声を築いていくこととなる。

時代が大正に移ると、第一次世界大戦関東大震災、それに続く不況によって社会情勢は不安定化。資金力・信用力が脆弱な中小の銀行は経営難に陥ったが、安田銀行はこれを援助し、時には吸収・合併を行い預金者の救済にあたった。こうして親密となった11行が1923年に大合同して新:安田銀行となる。資本金1億5000万円、預金5億4200万円、貸出金5億2100万円、店鋪数211、従業員数3,700人などいずれの分野においても国内首位となり、この座は1971年第一勧業銀行誕生まで不動であった。

初代安田銀行末期の店舗網は栃木県から東北方向に伸びていた。
統合参加10行の概要.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節の加筆が望まれています。

第三銀行
詳細は「第三国立銀行」を参照同行は、大阪で国立銀行免許を安田が譲り受けて設立。安田系の大合同に参加したなかで、2番目の規模ではあったが、初代安田銀行との店舗の重複は東京(小舟町本店)と横浜の2店舗であり、その他は大阪、山陰地方などに店舗を有していた。営業店としては現在のみずほ銀行函館支店がある.
明治商業銀行
同行はもともと安田と加賀前田家によって設立。安田系銀行として安田、第三に次ぐ規模の銀行であった。本店は東京八重洲に置き東京府内を中心に群馬県数ヶ所と石川県金沢市、長野県松本市に計22店舗を有していた。
根室銀行
1898年に北海道根室町柳田藤吉が設立(設立時より安田善次郎が顧問就任)した。翌年の増資に際し安田が引き受けることになった。道内(道央・道南を除く)各地に全19店舗を置いていた。営業店として現存するのは、みずほ銀行釧路支店、帯広支店(当時の支店建物は十勝信用組合本店として利用されている)。 なお、昭和中期に日本勧業銀行帯広支店の営業権を富士銀行が引き受けた。みずほ帯広支店は旧日本勧業銀行帯広支店の場所にある。
神奈川銀行
現在の横浜市神奈川区に本店を置き明治恐慌や大戦後不況などで不調となったのち全支店廃止し、本店内に第三銀行神奈川支店が設けられ有価証券も第三銀行に譲渡された。安田系となった銀行としては参加11行の中でもっとも遅い。営業店としては現在のみずほ銀行横浜駅前支店。現存する第二地銀の同名の銀行とは無関係である。
信濃銀行
小坂善之助ら8名により私立銀行として設立したが1905年末に生糸価格の暴落もあり苦境に陥り1908年に安田の手により救済された。店舗は長野県中心に18店舗有していた。営業店としては現在のみずほ銀行長野支店。1928年(昭和3年)に設立された信濃銀行とは歴史的に全くの別銀行である。
京都銀行
1894年に開業するも7年後の1901年の恐慌により経営は悪化。安田の手により救済された。現存する同名の銀行とは無関係である。店舗は京都府福井県に6店舗を有していた。営業店としては現在のみずほ銀行京都支店。
百三十銀行
1878年松本重太郎大阪市東区(現在の中央区)高麗橋に資本金25万円で第百三十国立銀行として設立した。旧徳島藩士小室信夫と組んで、宮津福知山の旧藩士を説き、金禄公債を資本金として出資させるのに成功した。初代頭取には、小室の父佐喜蔵が、取締役には渋谷、稲田、松本誠直が就任し、重太郎は取締役兼支配人となった。1880年には重太郎が頭取に就任した。こうして1896年には、貸出額は住友銀行をしのぎ、在阪銀行のトップの座を占めた。1898年、国立銀行の満期解散にともない、同行は普通銀行に転換し、百三十銀行と改称。同行は百三十六銀行、大阪興業銀行、小西銀行、西陣銀行、福知山銀行、八十七銀行を合併し、1902年末には資本金325万円、大阪・京都・滋賀(末期には撤退)・福井・福岡に15店舗をもつ大銀行となったがその後の1904年(明治37年)に休業・破綻により安田が救済しそれ以降安田系の銀行となる。安田銀行への大合同直前には前記の地域に加え、朝鮮半島にも4店舗所を含む27店舗を有していた。営業店としては現在のみずほ銀行大阪支店ほか。
日本商業銀行
1895年に開業。翌年には福岡県門司町北海道小樽町に進出。さらには営業満期となった第百三国立銀行を吸収合併。現在の神戸市兵庫区に本店を置き店舗は兵庫県内はもとより、山口県、福岡県、長崎県長崎市、北海道小樽市に全13店舗を有していた。本店は営業店としては現在のみずほ銀行神戸支店。
二十二銀行
詳細は「二十二銀行」を参照1876年の国立銀行条例改正と共の有志により第二十二国立銀行を設立。その後1897年に二十二銀行と改称。当時の地方銀行としては屈指の規模を誇るが1901年に苦境に陥り安田の手に委ねられた。岡山市に本店を置き、店舗網は岡山県を中心に香川、広島県内に全23店舗を有していた。営業店としては現在のみずほ銀行岡山支店ほか4店舗。 二十二銀行本店の流れを汲むみずほ銀行岡山支店[注 2]
肥後銀行
前身は第六国立銀行。現在の同名の銀行とは異なる。1877年福島市で開業した後、1892年に本店を東京に移すものの最終的には熊本市に移転していた。そのなかで大阪支店の廃止や第九銀行の吸収合併などを行った。統合直前には熊本県を中心に全19店舗を有していた。営業店としては現在のみずほ銀行熊本支店。
戦後 - 富士銀行 旧:富士銀行鳥取支店(1951年?1968年撤退・完全廃止まで使用 建物としては島根銀行鳥取支店)

終戦後の財閥解体によって安田銀行は安田家と決別する意思のもとに、1948年(昭和23年)、富士銀行と改称。「富士」という新商号は、日本最高峰である富士山にちなんでおり、「国民[注 3]」「共立」「日本商業[注 4]」「富士[注 5]」などの中から京浜地区の行員によるアンケートの結果選ばれたものである。戦前からの強みであった公金取り扱いに加えて、芙蓉グループの結成により一大企業系列の中核となった。1948年時点で新資本金13億5000万円、従業員数7899人、店舗数189であり、読んで字の如く「日本最大の銀行」が誕生した。

上記の通り富士銀行は終戦後、しばらく都市銀行界においてトップの地位にあった。だが、2位の三菱銀行、3位の住友銀行企業集団を背景にトップの座を目指し猛攻を開始。旧安田財閥には事業部門に優良企業がなかったため、富士銀行は苦戦が目立ち始めた。そこで、案出された戦略が「経済主流取引」であった。「経済主流取引」とは、その時々の経済情勢において、主流を成すと思われる経済主体(当時は大企業)取引を強化しメインバンクとなることであり、富士銀行は東京大学(東京帝国大学)出身の優秀な行員を企画部に配置。「経済主流取引」を任せられる有為な人材の育成に力を注いだ[3]。この「経済主流取引」が全店レベルで実践に移されると、重点を置く企業の取引担当店(主管店)が取引先を調べ、その取引先の所在地の支店と協力しながら、取引を開拓する「躍進三大運動」(預金の躍進、基盤の確立、合理化)を展開した。なお、この「経済主流取引」なる用語を考えた出したのは業務部綜合企画課課長代理であった松澤卓二(のち頭取)であった[4]

富士銀行を中心とした企業集団が明確に形成されるのは、1950年代のことである。当時常務であった岩佐凱実(のち頭取)が中心となって有力取引先の社長らと懇談を重ね、融資先とのコネクションの形成を担った[5]。そうした中、島屋から分離して発足した商社の高島屋飯田が経営不安に陥り、再建策が俎上に載った。当初三井物産などに営業譲渡が模索されたが、結果として富士の主導で丸紅との合併話が進み、丸紅飯田(のち丸紅に改称)が誕生した。これに伴い、融資系列も住友銀行から富士の系列となり、丸紅は富士における融資系列を代表する企業となった。加えて丸紅は富士の融資系列企業との商取引も拡大。これによって、従前、繊維部門偏重だった丸紅は総合商社として脱皮することに成功した[5]。こうして、資金の流れを管理する銀行・モノの流れを管理する商社からなる戦後高度経済成長の企業集団に必要な2つの要素が揃い、芙蓉グループの基礎が整った。

昭和40年代、日本企業の相次ぐ海外進出やユーロ市場拡大が目立ち始め、銀行業界にも本格的に国際化の波が押し寄せて来た。


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