富士通サッカー部
[Wikipedia|▼Menu]

富士通サッカー部
原語表記富士通サッカー部
呼称富士通
クラブカラー.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  白
創設年
1955年
解散年1996年
所属ディビジョン日本サッカーリーグ
ホームスタジアム等々力陸上競技場
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

富士通サッカー部(ふじつうサッカーぶ)は、かつて存在した日本サッカークラブ。富士通のサッカー部として1955年に創部し、1996年に「富士通川崎フットボールクラブ」へ改称した。呼称は「富士通」。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属の川崎フロンターレの前身となったクラブである[1]
歴史
創立・JSL時代

富士通サッカー部は中原区の国鉄(現:東日本旅客鉄道南武線武蔵中原駅前にある富士通[2] 川崎工場の従業員を中心した同好会として設立され、1960年代から徐々に強化を進めた結果[3]1967年関東サッカーリーグ発足時のオリジナルメンバーとなった。1972年日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格し、1976年にはGKで主将を務めた小浜誠二の活躍もあってJSL2部で優勝、ホーム&アウェー方式の入替戦で同シーズン1部最下位のトヨタ自動車工業サッカー部に1分1敗で敗れ一旦は1部昇格を逃したものの、その後1部7位だった永大サッカー部の活動休止が決まったことにより翌シーズンから1部に昇格した。しかし2シーズン後には2部に降格し、その後はJSL2部での活動が続いた。この1部昇格時を含む1973年から1991年八重樫茂生が監督または総監督を務め(中断期を含む)、富士通サッカー部の基礎を築いた。

1988年/89年シーズンには元中国代表沈祥福が北京足球倶楽部から入団し、以後は日本サッカーでは珍しく中国色の強いクラブへと変化した。
JFL

富士通はJリーグとしてのトップリーグのプロ化には参加せず、1992年からは企業内チームのままジャパンフットボールリーグ(旧JFL)へ参加。同年に現役を引退した沈が1994年にコーチから監督へ昇格し、魏克興など他の中国人選手の活躍もあって、他チームのプロ化が進む旧JFLで中位の維持に貢献した。1995年には専修大学から源平貴久が入団し、開幕戦の東芝堀川町サッカー部[4] での2ゴールで華々しいデビューを飾り、シーズン終了までにチーム内最多の8得点を決めたが、チームは旧JFLで最低の12位へ後退した。シーズン終了後に沈は監督を辞任し、他の選手と共に中国へ帰国した。同年には11シーズンにわたって活躍した岩渕弘幹が現役を引退した。

沈が監督を辞任して中国へ帰国し、1983年から1988/89年シーズンまで富士通サッカー部の選手だった城福浩が監督となった1996年シーズンにクラブは「富士通川崎フットボールクラブ」へ改称した。守備の中核としてジュビロ磐田からパウスを迎え、攻撃ではナイジェリア出身の新FWムタイルが期待された。シーズン序盤にはブランメル仙台からブラジル人MFのエンリケを獲得して更なる戦力強化を図り、ムタイルはチーム得点王の11ゴールを挙げて同年のJFLオールスター戦にも出場したが、最終順位は3ランクアップの9位に終わり[5]、中位圏からの躍進はできなかった[6]
フロンターレへの移行

一方、運営面では大きな変革を迎えていた。既述通り、1996年3月の旧JFL開幕時に富士通サッカー部は企業登録のまま、「川崎」の名称を加え、従来は大和市大和市営大和スポーツセンター競技場厚木市にある厚木市荻野運動公園競技場での開催が多かった旧JFLの主催試合を市内の等々力陸上競技場で増やせるようになったが[7]、その将来像はまだ明確ではなく、栃木県小山市などでは富士通の誘致を念頭に置いた「Jリーグクラブ招致活動」も行われていた[8]。しかし、富士通は自らの手でサッカー部をプロ化し、川崎市をホームタウンとしてJリーグ参加を目指す事を決定し、10月17日に富士通本社から記者発表を行った。同月には同じ川崎市が本拠地だったJリーグクラブのヴェルディ川崎と等々力で公開練習試合を行って川崎市民への告知を行い、11月21日には「富士通川崎スポーツ・マネジメント株式会社[9]」を設立してチームを法人化し、更にチーム名の公募も始めて、翌シーズンへの準備を進めた。城福監督やコーチ、それに選手の多くはアマチュアだったため、クラブのプロ化による大量の退団・社業専念が実施され、数人のプロ契約選手もムタイル以外は全員が退団した。

その変革の中で臨んだ天皇杯では、11月17日の3回戦でジェフユナイテッド市原を下し、初めて公式戦でJリーグクラブを倒してベスト16に進出した。4回戦は旧JFL閉幕後の12月23日に等々力で行われ、ガンバ大阪に1-3で敗れた富士通川崎サッカー部は歴史に一区切りを付けた。

なお、「富士通川崎サッカー部」なるクラブは、その後フロンターレに参加せず社業に専念する選手により別に作られ、現在神奈川県社会人サッカーリーグ3部リーグ(2013年)[10] に所属している。
略歴

1955年 : 創部。

1967年 : 関東サッカーリーグ発足と同時に同リーグへ参加。

1972年 : 日本サッカーリーグ(JSL)2部へ昇格。

1977年 : JSL1部へ昇格。

1979年 : JSL2部へ降格。

1992年 : ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)へ参加。

1996年 : 「富士通川崎フットボールクラブ」へ改称。

1997年 : 「川崎フロンターレ」へと組織を改編し、「富士通サッカー部」としては消滅。

チーム成績・歴代監督

年度カテゴリ順位勝点勝分敗得点失点監督
1967
関東2位189053313野沢量一郎
1968優勝2310314215
19693位177343419
19704位156352724
19714位177342416
1972JSL2部4位174951923
19734位229453328八重樫茂生
(総監督)、
赤坂健二
19742位229453219
19753位2610623717
1976優勝291332326
1977JSL1部9位2032PK勝 4PK敗91838八重樫茂生
19789位1731PK勝 3PK敗111429
1979JSL2部3位47110PK勝 3PK敗42918
19802位2510532512
19815位2110173127
19827位134591626福家三男
19837位156392427
19847位145492030
1985JSL2部・東_104241612八重樫茂生
JSL2部・下位8位8400172
1986JSL2部・東下位10位2411273726
1987JSL2部・東下位10位229472517


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:42 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef