富士製鐵
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富士製鐵株式會社
Fuji Iron & Steel Co., Ltd.東京・丸の内の富士製鐵ビル。2015年に解体され、現存せず。
種類株式会社
市場情報東証1部 5402
1950年10月2日 - 1970年3月25日
本社所在地 日本
100-0005
東京都千代田区丸の内3丁目2番3号
富士製鐵ビル
設立1950年昭和25年)4月1日
業種鉄鋼
事業内容鉄鋼・化学製品の製造・販売
代表者永野重雄社長
資本金1020億円(1967年9月以降)
売上高2958億円(1970年3月期)
総資産9852億円(1970年3月30日現在)
従業員数3万4466人(1970年3月1日現在)
決算期9月・3月(年2回)
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富士製鐵株式会社(ふじせいてつ、登記上の商号:富士製鐵株式會社、: Fuji Iron & Steel Co., Ltd.)は、かつて存在した日本鉄鋼メーカー(高炉メーカー)である。略称は富士鉄(富士鐵、ふじてつ)。

1950年昭和25年)に、財閥解体により解体された日本製鐵(日鉄)の後継会社の一つとして発足。同じく日鉄の後継会社であった八幡製鐵1970年(昭和45年)に合併し、新日本製鐵(新日鉄、現・日本製鉄)となった。
概要

前身の日本製鐵(日鐵)は財閥解体の対象となり、過度経済力集中排除法(集排法)の適用を受けて1950年(昭和25年)4月に解体された。日鐵解体に伴って発足した後継会社の一つがこの富士製鐵である。日鉄の鉄鋼部門を引き継いだ高炉メーカーで、粗鋼生産量は日本第2位、同じく日鉄の後継会社である八幡製鐵と並ぶ規模の大手高炉メーカーであった。

製鉄所は日鐵から継承した広畑室蘭釜石と、系列高炉メーカーの東海製鐵の合併により、1967年(昭和42年)に加わった名古屋の計4か所。長らく広畑を主力としたが、末期には名古屋が生産規模の上では広畑を凌いだ。いずれも銑鋼一貫製鉄所で、銑鉄や鋼材の製造・販売を主力の事業とした。鉄鋼業の指標となる粗鋼の生産量は発足当初は90万トン(1950年度実績)に過ぎなかったが、3度にわたる設備拡張計画で1969年度には約17倍の1500万トンに達した。製品面でも、この間に汎用鋼材のみから表面処理鋼板や高張力鋼電磁鋼などの高級鋼材の生産も可能になった。事業はこれらの鉄鋼の製造のほかにも、橋梁配管工事や建築物の建設、化成品の製造・販売も行っていた。

1968年(昭和43年)に、八幡製鐵との合併を発表する。合併によって巨大高炉メーカーが発足するために混乱があったが、2年後の1970年(昭和45年)3月に八幡製鐵と合併、新日本製鐵(新日鐵)として発足した。この合併では、手続上は八幡製鐵が存続会社となって新日本製鐵に社名を変更し、富士製鐵は解散したという形を採っている。
沿革
概略
発足

1950年(昭和25年)4月1日日本製鐵(日鐵)の解体に伴って、八幡製鐵・日鐵汽船(現・NSユナイテッド海運)・播磨耐火煉瓦(現・黒崎播磨)の後継会社3社とともに富士製鐵は発足した。

前身の日鉄は、1934年(昭和9年)に官営八幡製鉄所を中心に官民の製鉄業者を合同(=製鉄合同)して発足した企業である。法律で規定された国策会社で、日本の鉄鋼生産量の大部分を生産する巨大企業であったが、その規模ゆえに太平洋戦争後の占領下財閥解体の対象となり、過度経済力集中排除法(集排法)の適用を受けた。


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