この記事には複数の問題があります。改善
やノートページでの議論にご協力ください。富士登山(ふじとざん)では、富士山への登山に関して解説する。目次
1 概要
1.1 歴史
1.1.1 皇太子の富士登山
2 登山期間
3 気候
4 登山ルート
4.1 吉田ルート
4.2 富士宮ルート
4.3 須走ルート
4.4 御殿場ルート
4.5 ルートごとの登山者数
5 山小屋
5.1 営業時期
5.2 設備
5.3 営業時間
5.4 宿泊
5.5 トイレ
5.6 その他
6 危険性
6.1 遭難者数
7 その他
7.1 マイカー規制
7.2 御来光と影富士
7.3 案内標識
7.4 夏期以外の登山
7.5 お鉢巡り
7.6 郵便
7.7 金剛杖と焼印・刻印
7.8 携帯電話
7.9 物資の運搬
7.10 清掃登山
7.11 「望ましい登山者数」問題
7.12 新型コロナウイルスによる閉山
8 参考文献
9 脚注
10 関連項目
11 外部リンク
概要
歴史 江戸時代の富士登山。浮世絵「冨嶽三十六景 諸人登山」。北斎画。 富士山への道中と周辺の名所を描く。彼が得意とする鳥瞰図でも上下6 枚続の珍しい作品。西暦1859年。
富士山は神体山(霊山、霊峰)として古来崇められ、登山は山岳信仰の一環としての歴史が長い。伝説では飛鳥時代、聖徳太子が乗馬して山頂に至り[1]、役小角が流刑先の伊豆大島から海上を歩いて富士山頂に通ったとされる。平安時代の貴族で学者の都良香が記した『富士山記』には富士山頂上の実情に近い風景描写がある。これは、良香本人が登頂、または実際に登頂した者に取材しなければ知り得ない記述であり、富士登山の歴史的記録として重要である。鎌倉時代には村山修験による修行のための登山が確立し、既に現在につながる4つの登山口があった。明応9年(1500年)の妙法寺『勝山記』によれば、室町時代にはすでに修行ではなく参拝のための登山が確立しており、江戸時代中期以降には関東地方を中心に新宗教である富士講が流行し、一般人による信仰目的の登山が増加した。観光目的の登山は特に西洋の登山文化が導入された明治期以降、特に中央線の開通以降に盛んになった[2]。
富士山はかつて女人禁制とされていた[3]。しかし、江戸時代に登山客の増加につれて二合目、三合目、期間限定で五合目などと徐々に解禁されていった。江戸時代後期の天保3年(1832年)に女性では初めて高山たつが登頂[4]。