富士氏
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富士氏
棕櫚
本姓和邇部宿禰
家祖和邇部豊麿[1]
種別社家
武家
出身地駿河国富士郡大宮
主な根拠地駿河国富士郡
著名な人物富士信忠
富士信通
支流、分家米津氏?(武家
福士氏?(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

富士氏(ふじし、ふじうじ)は、日本氏族駿河国富士郡富士上方(現在の静岡県富士宮市一帯)の領主富士山本宮浅間大社大宮司を継承する社家であり、また戦国期には富士城城主を務める武家であった。
富士大宮司

富士氏当主は「富士大宮司」という浅間大社の神職を司っており、公文[2]・案主[3]の神職も富士氏が継承していた[4][5]

慣例として富士大宮司が政治的な部分を執り行ない、案主・公文は庶子衆とも呼ばれていた[6]。また室町時代においては、富士大宮司職の補任権を足利将軍家が有していた[原 1][7] 。江戸時代には富士大宮司と公文・案主間で争論が生じたが[原 2]幕府裁許状に「公文・案主事、大宮司同格とは不可心得」とあるように、富士大宮司は富士家の中で別格な存在であった。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}(左)賽銭箱にみられる棕櫚紋
(右)受付所に見られる棕櫚紋の幕
家紋

家紋は「棕櫚(しゅろ)」であり、『羽継原合戦記』に「シュロノ丸ハ富士ノ大宮司」とある。また江戸幕府の裁許状[原 3]の中では「棕櫚葉之紋」とある。この棕櫚紋は富士大宮司のみが用いるものであり、「公文富士能成等返答書控」「富士信安父子連署請書写」には棕櫚紋は古来より富士大宮司のみが使用してきたとある[8]。このように、同じ富士家一族でも公文富士氏・案主富士氏は棕櫚紋を容易に使用できるものではなかった。
古文書

富士氏は国人領主であり、また今川氏武田氏後北条氏と関係が深い。それら中世を中心とする文書群の一部は現在「大宮司富士家文書」として保存されている。元は富士重本以後の富士家当主である富士高茂がこれら文書を保持しており、東京大学史料編纂所明治時代昭和時代にこれを採録するなどしている[9]。また『静岡県史料』にも60通が収録された。後にこれら原本の文書は流出し、あるときはうち36通もの文書の売却が検討される状況に至った。これを危惧した村田正志が売却の保留を促し、静岡県の美術館が購入することとなった[10]。現在は静岡県立中央図書館がその36通を保管しており、「富士山関係資料デジタルライブラリー」にて公開されている。
歴史富士氏の居館跡に建てられる「芙蓉館碑」[11](市民文化会館)
発祥

「富士大宮司系図」によると、始祖は孝昭天皇の後裔であり豪族和邇部氏と伝えている。例えば寛正3年(1462年)の「後花園天皇袖判口宣案[原 4]に受給者として「右馬助和邇部忠時」とあるように、本姓として用いられていた。同系図によると、延暦14年(795年)に豊麿が駿河国富士郡を治める大領の地位に就いて以来、代々郡司を世襲したという[12]。また異なる系譜を示す「和邇氏系図」によると、豊麿は「駿河」の任に就いていた和邇部宿禰宗人の子であるという[13]。また延暦20年(802年)には浅間神社の祭祀を司るようになったとしている[14]。11世紀頃には判官代・公文所に転身し[15]、これらが富士家に連なるという系譜を示している。

富士直時の書状では、少なくとも14世紀には既に富士郡富士上方(現在の富士宮市一帯)を支配する氏族として存在していたことが分かる[16]。他、富士上方の社寺に対して諸役免除を行うなど[原 5][17][18]、富士郡領主として存在し続けた。
南北朝時代以降富士忠時・富士親時が造立に関わった仏像であり、神職としての側面が確認できる[原 6][19]富士親時が檀那となり奉納された仏像

南北朝時代には既に武家としての面が確立されていた。観応の擾乱の際には、観応2年(1351年)に上杉憲将により甲斐国への通路の警護を命ぜられている[原 7][注釈 1]

また駿河国守護である今川氏と富士氏を関係付ける早例の史料として、康安2年(1362年)に今川範氏有度郡内の富士浅間宮領への乱入狼藉を停止する旨の書下状を富士大宮司に与えている例が挙げられる。これは今川氏と富士氏の主従関係ではなく室町幕府の意向を汲んだものであるとされる[21][22]。また富士氏は一部交通を掌握していた。応永16年(1409年)には富士長永が根原[注釈 2]の関所を領有しており、駿河国と甲斐国の国境を押さえていた[23]

駿河国守護である今川家当主今川範政亡き後、彦五郎(今川範忠)と千代秋丸両氏での家督争いが発生した。この家督争いに際し、富士氏は駿河国内の混乱を室町幕府に報告するなどしている[原 8][24]。富士氏は彦五郎への家督相続に対して反対の立場を取り[25][26]、範忠の駿河国下向に際して交戦状態となった。しかし室町幕府将軍である足利義教の裁定の影響は大きく、範忠が家督相続することで落ち着いた。情勢的には富士氏ら千代秋丸派は範忠から反逆者として追討されてもおかしくない運命であったが、折しも室町幕府と鎌倉府との対立が深刻化しており(永享の乱)、8月19日には幕府より今川氏への忠節を命じる文書が「富士大宮司」「富士右馬助」へと発給されている[27][28][29]


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