富士 正晴
ふじ まさはる
誕生1913年10月30日
徳島県三好郡山城谷村(現三好市)
死没1987年7月15日
大阪府茨木市
墓地宝積寺
職業小説家・詩人
言語日本語
国籍 日本
最終学歴旧制第三高等学校中退
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富士 正晴(ふじ まさはる、本名:冨士正明、1913年10月30日 - 1987年7月15日[1])は、日本の小説家・詩人。 徳島県三好郡山城谷村(現三好市)出身[2]。1931年旧制第三高等学校理科甲類に進学[3]。志賀直哉を訪問したところ、竹内勝太郎を紹介されて師事する[1][3]。1932年、野間宏(のちに富士の妹と結婚して義弟となる)や桑原静雄とともに、詩の同人誌『三人』を創刊[3]。理科甲類を中退し、文科丙類に再入学するが、1935年に退学する[3]。 1944年、31歳にして陸軍に応召[3]、南京、桂林、広州等を行軍する。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}戦争にのぞみ、必ず生きて帰ること、戦時強姦をしないこと、大いに飯を食うこと、ビンタを張られても無理な仕事は避けることという鉄の規則を立てて、結果「自称・三等兵」のその立場を貫くことになる[要出典]。応召の前には、三島由紀夫の処女刊行本『花ざかりの森』出版に尽力した[1][4]。 復員後の1947年には島尾敏雄、林富士馬らと同人誌『VIKING』を創刊し[3]、多くの後輩作家を育てた。 『敗走』『徴用老人列伝』で芥川賞候補に挙げられ[2][1]、1968年に『桂春団治』で毎日出版文化賞[3]、1971年に大阪芸術賞[3]、1987年に関西大賞大詩仙賞[1]をそれぞれ受賞。その他の代表作に『帝国軍隊における学習・序』(直木賞候補[3])をはじめ、『贋・久坂葉子伝』『往生記』『軽みの死者』があり、数多くの小説、エッセイを残した。座談の名手でもあった。また、没後の上方落語界をはじめとする関西芸能の研究でも知られる。 詩人の伊東静雄、仏文学者の桑原武夫、作家の司馬遼太郎など多くの著名文学者と深い交流があった。 晩年まで大阪府茨木市内の竹林に住していたことから、「竹林の隠者」と称された[2]。書画もよくし、東京の文春画廊で個展を開いた際、親交のあった鶴見俊輔がこの会場から小田実と連絡をとり、ベ平連運動が始まるきっかけとなったという逸話がある(ベトナム北爆には衝撃を受けるかたわらで、魯迅を読むことで沈鬱さの平衡を保っていた)。[要出典] 1987年に死去。翌1988年に岩波書店で『富士正晴作品集』(全5巻)が刊行。 1992年に茨木市畑田町の中央図書館に併設し富士正晴記念館が開館した。同年秋には『豪姫』が勅使河原宏監督、宮沢りえ主演で映画化された。原作は唯一の長篇歴史小説『たんぽぽの歌』を改題。 1999年に伝記『竹林の隠者 富士正晴の生涯』(大川公一、影書房)が刊行。 2010年から2019年まで、出身地の三好市主催で高校生対象の文芸誌のコンクール「富士正晴全国高等学校文芸誌賞」(通称・文芸誌甲子園)が行われていた[5]。
来歴・人物
没後
著書
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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