富士川
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この項目では、一級河川の富士川について説明しています。その他の河川については「富士川 (曖昧さ回避)」を、東海道本線と身延線を結ぶ列車については「ふじかわ (列車)」をご覧ください。

富士川
道の駅富士川楽座東名高速道路富士川SA)より
水系一級水系 富士川
種別一級河川
延長128 km
平均流量63.2 m³/s
(清水端観測所 2000年)
流域面積3,990 km²
水源鋸岳(山梨県)
水源の標高2,685 m
河口・合流先駿河湾(静岡県)
流域 日本
長野県山梨県静岡県


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富士川(ふじかわ)は、長野県山梨県及び静岡県を流れる河川一級水系富士川の本流であり日本三大急流の一つに数えられている。

甲斐駿河を結ぶ水運としての要路であり、古くから人々の暮らしに密着してきた。
地理富士川河口付近の空中写真(1988年撮影)国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

釜無川本谷として、南アルプス北部、山梨県と長野県の県境に位置する鋸岳(のこぎりだけ)に源を発し、長野県富士見町にて八ヶ岳などを源流とする立場川と合流しながら、山梨県北杜市まで長野・山梨両県の県境を成す。北杜市にて山梨県域に入ってから尾白川塩川御勅使川などと合流しながら甲府盆地を南流し、西八代郡市川三郷町南巨摩郡富士川町の町境で笛吹川と合流する。ここまでを釜無川と呼ぶ。

釜無川の名前の由来には諸説あり、上流の「釜無山」にちなむというもの、のような深いがないことにちなむもの、釜のふちのような堤防がないことにちなむもの、川の水が温かいので釜が必要ないからというもの、巨摩郡を貫流する大河のゆえに「巨摩の兄(こまのせ)川」というもの、「水量が豊富で流れが速いため、釜を洗おうとするとすぐに流されて無くなってしまうから」という伝承に近いものなどが挙げられる。その中でも有力視されているのが、絶え間なく流れる様子を表した「クマナシ(隈無し)」に由来しているというものである[1][2]

一般的に釜無川と笛吹川の合流点より下流を富士川と呼び、そのまま富士山の西側を南流する。途中、早川や常葉川、波木井川など、更に下って静岡県に入り稲子川芝川などの支流を合わせ、富士市雁堤南で東海道と交差し、富士市と静岡市清水区との境で駿河湾に注ぐ。

富士川の語源については、富士山から流れ出た水が集まって川となる説や藤川の変化だという説がある[3]
呼び方

正式には「ふじかわ」と濁らない発音であり、東海道新幹線富士川橋など橋付近に掲げられている看板には英語表記で「FUJIKAWA」と記載されている。また流域の静岡県、山梨県では「ふじかわ」と呼ばれ、これは静岡における4音の川で、2音目が濁るもの(安倍川、地名の旧芝川町〈現・富士宮市〉など)で共通のルールである。

国語辞書・百科事典での仮名見出し・読み仮名はまちまちで、『大辞林』(三省堂)・『日本大百科全書』(小学館)では「ふじかわ」としている一方、『日本国語大辞典』や『大辞泉』(いずれも小学館)・『集英社国語辞典』(集英社)・『世界大百科事典』(平凡社)では、「ふじがわ」としている。『広辞苑』(岩波書店)は2008年の第六版まで仮名見出しを「ふじがわ」としていたが、2018年の第七版で「ふじかわ」に改めた。なお「ふじかわ」を仮名見出しとする『大辞林』『日本大百科全書』『広辞苑』第七版は、項目中で「ふじがわ」の読みに触れている。

国土交通省サイトで日本全国の一級河川を紹介する「日本の川」では読み仮名を「ふじかわ」としており、URLには「fujikawa」の文字が含まれる[4]

『NHK日本語発音アクセント新辞典』では富士川の発音を「フジカワ ̄」と示している。

流域の山梨県南巨摩郡富士川町および2008年平成20年)10月31日まで存在した静岡県庵原郡富士川町(現・富士市)は、正式に「ふじかわちょう」と発音する。
歴史
万葉集に詠まれた富士川

富士川が記録に登場するのは古く、奈良時代に編まれた万葉集第三巻 三一九の富士山を称えた長歌高橋虫麻呂の作ともいわれる)に、富士川の名がみえる。長歌には、「富士川と人の渡るも その山(富士山)の水のたぎちぞ」という一節がある。
富士川の戦い岩本山からみた富士川と雁堤詳細は「富士川の戦い」を参照

1180年源頼朝平維盛が戦った合戦。治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。

石橋山の戦いで敗れた源頼朝は安房国で再挙し、進軍しながら東国武士がこれに参集して大軍に膨れ上がり鎌倉に入る。頼朝は駿河国で、都から派遣された平維盛率いる追討軍と戦い勝利し、関東での割拠を確立させた。
中世の渡船

戦国大名らは富士川の渡船を管理していた。中世には既に渡船の環境が整備されており、例えば駿河国橋上[注釈 1]の富士川沿岸には船役所があり、船方衆らが筏役を務めていたことが知られる。また船方衆らは戦時に渡船を行うために動員されており、橋上の森家は今川義元氏真より「昼夜河舟労功」の奉公から諸役免除を認められている[5][6][7]

また駿河侵攻により武田氏が駿河を領すると、武田家家臣穴山信君が筏役の見返りとして森家の諸役免除を認めている[8][9]。このように領主らは渡船を重視しており、船方衆らを抱える政策を行っていた。
水害

江戸時代の始めには、いくつもの支流をつくりながら、富士市の東(現在の田子の浦)の方向へ曲がり、川沿いにあたる富士市は度重なる洪水による災害が多発していた。江戸時代1674年)に古郡重高・重政・重年の父子三代が50年以上の月日を費やし、富士川の流れそのものを直線となる現在の場所に変えた。水田を富士川の洪水被害から守るため、洪水が多発していた場所に遊水地としての機能も持つ全長2.7kmに及ぶ大規模な堤防雁堤』を完成させ、『加島五千石』と呼ばれる水田を加島平野(現在のJR富士駅周辺の一帯)に造成した。

現在の富士川は、潤井川などの支流への水量調整や、日本軽金属蒲原製造所が自社水力発電の為に、雁堤よりも上流で水を採水し、そのまま駿河湾へ流しているため昔のような水害はないが、1982年(昭和57年)8月2日台風10号の影響により、山梨県鰍沢町(現・富士川町)などが氾濫したほか、主要地方道富士川身延線(現・国道469号との重複)の万栄橋と、日本国有鉄道(国鉄)東海道本線の下り線橋脚が流失。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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