富井政章
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富井 政章1908年頃の肖像
人物情報
生誕 (1858-10-16) 1858年10月16日安政5年9月10日
山城国京都武者小路通新町(現・京都府京都市
死没 (1935-09-14) 1935年9月14日(76歳没)
東京府東京市牛込区薬王寺町(現・東京都新宿区市谷薬王寺町
国籍 日本
出身校リヨン大学
学問
研究分野法学民法学
研究機関東京帝国大学法科大学
学位法学博士(リヨン大学法学部・1883年)
法学博士(日本・1888年)
称号東京帝国大学名誉教授(1903年)
主な業績民法典の起草
学会帝国学士院
法学協会
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日本政治家富井 政章
枢密顧問官
在任期間1918年4月18日 - 1935年9月14日
貴族院議員
選挙区(勅選議員
在任期間1891年12月22日 - 1918年4月24日
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富井 政章(とみい まさあきら、1858年10月16日安政5年9月10日〉- 1935年9月14日)は、日本法学者教育者学位法学博士帝国大学法科大学(現東京大学法学部)教授、帝国大学法科大学長、貴族院勅選議員枢密顧問官等を歴任。法典調査会民法起草委員。和仏法律学校(現法政大学)校長。京都法政学校(現立命館大学)初代校長、立命館大学初代学長。男爵

政章はまさあきではなく「Masaakira[1]」(まさあきら)。
人物

聖護院宮侍だった富井政恒の長男として現在の京都府京都市に生まれた。

民法典論争では、フランス法を参考にしたボアソナードらの起草にかかる旧民法は、ドイツ法の研究が不十分であるとして穂積陳重らと共に延期派にくみし、断行派の梅謙次郎と対立したが、富井の貴族院での演説が大きく寄与したこともあって旧民法の施行は延期されるに至り[2]、梅、穂積と共に民法起草委員の3人のうちの一人に選出された。商法法典調査会の委員でもある。

富井の主張は、穂積八束の主張した「民法出デテ忠孝亡ブ」といったようなイデオロギー的なものではなく、錯雑した「講義録」のような法典を実施すればフランス註釈学派の二の舞になって学問の進歩が阻害されてしまう[注 1]不平等条約改正の道具としてではなく国の実状に適したものとしての法典であるべきというあくまで学者としての立場からの慎重論であった[3]。もっとも、断行派であった梅も、旧民法やプロイセン民法に代表される細目網羅型・講義録形式型の法典に強い嫌悪を示している点で立場は異ならなかったから、新民法においては、既存のどの法典・草案よりも簡潔を旨として起草されることになったのである[4]。若し此の如き講義録体の錯雑した法典を実施すれば世間何処の学校も皆法典の弁別、順序、定義等に括られて仕まつて此法律を解くと云ふことになると思ひます……必ず此弊害が生ずると云ふことは仏蘭西が証拠である、仏蘭西の法律学と云ふものは此数十箇年全く此卑い註釈学問となつて居る……之に反して独逸が近年著しく進歩した訳は諸君の御承知の如く学問を奨励したと云ふ結果であります[5]……

富井は民法起草においても学者的立場から慎重をもって旨とし、梅が法実証主義・ドイツ法一辺倒の立場に立ちつつ実務的立場から迅速をもって旨とし、また自然法論・フランス法にも親和的な立場に立つため、しばしば対立し[6]、穂積陳重と共に日本のドイツ法学導入の先駆者とされる。
もっとも、旧民法起草当時日本にドイツ法の思想はほとんど入ってきておらず、また富井自身も梅、穂積と異なりドイツに留学したことはなかったため、民法のできる前は特にドイツ法の思想を主張したことは無かった。しかし、富井付きの起草補助委員だった仁井田益太郎ドイツ語に精通していたため、彼の手になるドイツ民法草案第一・第二の翻訳を通じてよくドイツ法の思想を消化し、「近世法典中の完璧とも称すへきもの」[7]であるとしてほとんどドイツ法一点張りで民法を作ろうという勢いであったとされ(仁井田の回想による)、日本民法学におけるドイツ法的解釈の端緒を切り拓いた[8]。なお、法典調査会においてはヴィントシャイトデルンブルヒの体系書にも言及しており、これらの書のフランス語訳版をも読んでいたものと推測されている[9]

他方、国の実状を直視し、沿革的・比較法的研究を踏まえつつも法の不備を認め[10]、要点を簡明に明らかにして裁判官の運用にゆだねるべきとするのが、法典論争からの一貫した主張であり、主著『民法原論』に現れたように、それが学風となっている[11]

長年にわたり東京帝大の民法講座を担当し、後に鳩山秀夫に引き継がれることになる東大民法学の基盤を確立。理路整然、簡にして要を得た名講義であったと伝えられる[5]。条文などもほぼ全部暗記していたようである[12]

留学時代の猛勉強から病弱であったが、健康に気を使ったため結果的に起草三博士の中で最も長命であった[13]。しかし、慎重を期する性格のため、梅が民法典全分野についての著書『民法要義』を僅か五年ほどの内に完結したのに対し、富井の民法原論はついに債権総論の上巻までしか日の目を見ることはなかった[注 2]

本野一郎との共訳(実質はほぼ富井の単独訳)で日本民法典財産編の仏語訳版をフランスで出版しており、模範的名訳との定評がある。リヨン大学で富井と首席の座を争ったフランス人弁護士をして、富井のフランス語の文章はフランス人を凌駕すると称賛された[14]

晩年には穂積重遠らと共に民法改正(親族法相続法)の改正にも着手したが、戦争によって頓挫し、これは後に中川善之助我妻栄らに引き継がれることになる[15]

刑法では、ボアソナードの弟子の宮城浩蔵らがフランス新古典派・折衷主義の立場をとっていたのに対し、犯罪の急増する社会情勢に対応できないと批判していち早く主観主義をとる新派刑法理論を主張した。その理論は、社会防衛論を基礎とする厳罰的主観主義で、現行刑法の成立に大きく寄与した。


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