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小惑星については「わび・さび (小惑星)」をご覧ください。

わび・さび(侘《び》・寂《び》)は、慎ましく、質素なものの中に、奥深さや豊かさなど「趣」を感じる心、日本美意識。美学の領域では、狭義に用いられて「美的性格」を規定する概念とみる場合と、広義に用いられて「理想概念」とみる場合とに大別されることもあるが[1]、一般的に、陰性、質素で静かなものを基調とする[2]。本来は侘(わび)と寂(さび)は別の意味だが、現代ではひとまとめにして語られることが多い[3]茶の湯の寂は、静寂よりも広く、仏典では、死、涅槃を指し、貧困、単純化、孤絶に近く、さび(寂)はわびと同意語となる[4]。人の世の儚(はか)なさ、無常であることを美しいと感じる美意識であり、悟りの概念に近い、日本文化の中心思想であると云われている[5]
龍安寺方丈庭園(石庭)。ここは曇っていてはだめだ。強い陽射しではない明るい日の中で観る古茶けた塀にこそ侘びを表象し、その塀の微妙なる色合いの変化こそが、この庭の凡てである。然びたる石庭そのものも造りは素晴らしいが、塀の色合いに勝ることはない(森神逍遥 『侘び然び幽玄のこころ』)[2]兼六園の茶室、夕顔亭。わび茶で使われる茶室は、一般的に写真のように周りに木や竹を生やし、茶室以外の世界から断絶させる。数名が茶を点てて飲むためだけのために設計され、通常、他の建造物からも隔離させて建てる。建材も自然の状態のまま、塗装などをあまりしないものを多く用いる。慈照寺庭園と銀閣黒楽茶碗 銘尼寺 17世紀 東京国立博物館

侘(わび、侘びとも)とは、辞典の定義によれば、「貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識」[6]を言い、動詞「わぶ」の名詞形である。「わぶ」には、「気落ちする」「迷惑がる」「心細く思う」「おちぶれた生活を送る」「閑寂を楽しむ」「困って嘆願する」「あやまる」「・・・しあぐむ」[7]といった意味がある。

本来、侘とは厭う(いとう)べき心身の状態を表すことばだったが、中世に近づくにつれて、いとうべき不十分なあり方に美が見出されるようになり、不足の美を表現する新しい美意識へと変化していった。室町時代後期には茶の湯と結び付いて侘の理解は急速に発達し、江戸時代の松尾芭蕉が侘の美を徹底した[6]というのが従来の説である。しかし、歴史に記載されてこなかった庶民、特に百姓の美意識の中にこそ侘が見出されるとする説が発表されている[2]

侘に関する記述は古く『万葉集』の時代からあると言われている。『万葉集』では、恋愛におけるわびしさを表す意味で用いられる場合が多い。(「わび・さびの語源と用例」参照)

「侘」を美意識を表す概念として名詞形で用いる例は、江戸時代の茶書『南方録』が初出と言われる。これ以前では「麁相」(そそう)という表現が美意識の侘に近く、例えば、茶人の山上宗二(1544?1590)は「上をそそうに、下を律儀に(表面は粗相であっても内面は丁寧に)」(『山上宗二記』)[8]と言っていた。もっとも、千利休(1522?1591)などは「麁相」であることを嫌っていた[9]から必ずしも同義とは言い難い。しかしこの時代の茶の湯では、わびしさが単に粗末であるというだけではなく、美的に優れたものであることに注目するようになっていった。

侘の語は、先ず「侘び数寄」という熟語として現れた。これは「侘び茶人」つまり「一物も持たざる者、胸の覚悟一つ、作分一つ、手柄一つ、この三ヶ条整うる者」(『宗二記』)[8]のことを指していた。「貧乏茶人」のことである。宗二は「侘び数寄」を評価していたので、侘び茶人すなわち貧乏茶人が茶に親しむ境地を評価していたといえる。千宗旦(1578?1658)の頃になると侘の一字で無一物の茶人を言い表すようになり、やがて茶の湯の精神を支える支柱として侘が醸成されていったのである。

ここで宗二記の「侘び」についての評価を引用しておこう。「宗易愚拙ニ密伝‥、コヒタ、タケタ、侘タ、愁タ、トウケタ、花ヤカニ、物知、作者、花車ニ、ツヨク、右十ヶ条ノ内、能意得タル仁ヲ上手ト云、但口五ヶ条ハ悪シ業初心ト如何」とあるから「侘タ」は、数ある茶の湯のキーワードの一つに過ぎなかったし、初心者が目指すべき境地ではなく一通り茶を習い身に着けて初めて目指しうる境地とされていた。この時期、侘びは茶の湯の代名詞としてまだ認知されていない。

一般に「わび茶」の創始者と言われる室町時代の村田珠光(1422?1502)は、当時の高価な「唐物」を尊ぶ風潮に対して、より粗末なありふれた道具を用いる方向に茶の湯をかえていった。珠光は浄土宗の僧侶であり、臨済宗の僧一休宗純(1394-1481)の下に参禅し禅の思想に触れた。そして、禅と同様、「茶の湯を学ぶ上で一番悪いことは、我慢(慢心)我執の心を持つことである」[10](倉澤行洋『珠光―茶道形成期の精神』p.43「心の文」より 淡交社 2002)として、禅と茶の一致を説いた。いわゆる茶禅一味である。その方向を、武野紹?(1502?1555)や千利休に代表される堺の町衆が深化させたのである。彼らが侘について言及したものが残っていないため、侘に関しては、彼らが好んだものから探るより他はない。茶室はどんどん侘びた風情を強め、「床壁の張付を取り去って土壁とし、木格子を竹の格子とし、障子の腰板も取り去り、床のかまちが真の漆塗りであったのを木目の見える程度の薄塗りにするとか、またはまったく漆を塗らずに白木のままにした。」[11](『現代語訳 南方録』「棚 一茶室の発達」p.225-226熊倉功夫 中央公論社 2009)張付けだった壁は民家に倣って土壁」『南方録』)になり藁すさを見せた。茶室の広さは「4畳半から3畳半、2畳半に」[12]、6尺の床の間は5尺、4尺へと小さくなり、塗りだった床ガマチも節つきの素木になった。紹鴎は日常品である備前焼や信楽焼きを好み、日常雑器の中に新たな美を見つけて茶の湯に取り込もうとした。このような態度は、後に柳宗悦(1889?1961)等によって始められた「民芸」の思想にも一脈通ずるところがある。[13] 一方、 利休は自然で無駄のない楽茶碗を新たに創出させた。

侘は茶の湯の中で理論化されていったが、「わび茶」という言葉が出来るのも江戸時代である。江戸時代には多くの茶書が著され、それらによって、茶道の根本美意識として侘が位置付けられるようになった。武野紹?は侘を「正直に慎み深くおごらぬ様」と規定している。[14](桑田忠親『日本茶道史』p.129-130「紹?侘びの文」より 河原書店、1975年) 一時千利休の秘伝書と目された『南方録』では、侘が「清浄無垢の仏世界」[11](前出『現代語訳 南方録』「滅後 二茶の湯の将来」p.650)と示されるまでになる。『南方録』は全篇で「わび茶の心」[11](同書「はじめに」p.1)が語り続けられているが、その冒頭には、「小座敷の茶の湯は第一に仏教の教えをもって修行し悟りをひらくものである。…こういうことは全て釈迦や祖師のやってきた修行であり、そのあとをわれわれが学ぶことである」[11](同書「覚書 一わび茶の精神」p.15)との利休の言葉が記される。

岡倉覚三(天心)(1863?1913)の著書『The Book of Tea(茶の本)』の中では「茶道の根本は‘不完全なもの’を敬う心にあり」[15]と記されている。この“imperfect(不完全なもの)”という表現が侘をよく表していると言える。英語で書かれた同書を通じて侘は世界へと広められ、その結果、日本を代表する美意識として確立されていった。

大正・昭和時代には茶道具が美術作品として評価されるようになり、それに伴って、侘という表現がその造形美を表す言葉として普及した。柳宗悦(1889?1961)や久松真一(1889?1980)などは高麗茶碗などの美を誉める際に侘という言葉をたびたび用いている。[16]

寂(さび、寂び、然びとも)は、「閑寂さのなかに、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさ」[6]を言い、動詞「さぶ」の名詞形である。

本来は時間の経過によって劣化した様子を意味している。漢字の「寂」が当てられ、転じて「寂れる」というように人がいなくなって静かな状態も表すようになった。さびの本来の意味である「内部的本質」が「外部へと滲み出てくる」ことを表す為に「然」の字を用いるべきだとする説もある[17][2]。ものの本質が時間の経過とともに表に現れることをしか(然)び。音変してさ(然)びとなる[18]。この金属の表面に現れた「さび」には、漢字の「錆」が当てられている。英語ではpatina(緑青)の美が類似のものとして挙げられ、緑青などが醸し出す雰囲気についてもpatinaと表現される。

「さび」とは、老いて枯れたものと、豊かで華麗なものという、相反する要素が一つの世界のなかで互いに引き合い、作用しあってその世界を活性化する。そのように活性化されて、動いてやまない心の働きから生ずる、二重構造体の美とされる[6]

本来は良い概念ではなかったが、寂しいという意味での寂は古く『万葉集』にも歌われている(「わび・さびの語源と用例」参照)。寂に積極的な美を見出したのは平安時代後期の歌人藤原俊成(しゅんぜい・としなり1114-1204)であると一般に言われる。歌の優劣を競う「歌合(うたあわせ)」の席で、歌の姿を「さび」ととらえ、それを評価したのである。歌われる「さびしさが重要な要素で、」「その寂しさを評価」[19](『さび ―俊成より芭蕉への展開』p.34 復本一郎 塙親書57 1983)した。

俊成の子定家(さだいえ・ていか1162-1241)は「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」(『新古今和歌集』363番)と詠み、夕暮れの静けさや寂しさを歌った。ここにも静けさや寂しさのなかに美を見出したことが示されている。またこの歌は、茶の湯の武野紹鴎によって侘び茶の心であると評されてもいる[11](前出『南方録』「わび茶の心」p.93)。

兼好法師(1283-1352頃)が書いたと言われる『徒然草』(1330?1349ごろ成立)には「羅(うすもの)は上下(かみしも)はづれ、螺鈿(らでん)の軸(じく)は貝落ちて後こそいみじけれ」といった友人を立派であると評して(第八十二段)、古くなった冊子を味わい深いと見る記述がある。また、「花はさかりに、月くまなきをのみ見るものかは」(第百三十七段)として、つぼみの花や散りしおれた花、雲間の月にも美が見出されることを示している。このような美を提示する『徒然草』も、「無常観によって対象を見ていた」と言われる。[19](前出『さび ―俊成より芭蕉への展開』p.57) 兼好は出家僧であり、「己をつづまやかにし、奢りを退け、財(たから)を持たず、世を貪らざらんぞ、いみじかるべき」(『徒然草』第十八段)と述べており、禅の生き方を理想としていることが読み取れる。侘の美意識とも重なる。また、兼好が生きた中世には『平家物語』や『方丈記』が成立し、無常観が意識されていた時代でもあった。


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