宿場
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「宿駅」はこの項目へ転送されています。京福電気鉄道三国芦原線にかつて存在した同名の駅については「えちぜん鉄道三国芦原線」をご覧ください。
中山道妻籠宿

宿場(しゅくば)とは、主に江戸時代五街道脇往還において駅逓事務を取り扱うため設定された町場をいう。宿駅ともいい、古代奈良時代平安時代から駅馬伝馬の制度によって整備されていった。

また、旅籠の集合体である宿場を中心に形成された町を宿場町(しゅくばまち)と呼ぶ。東海道五十三次の宿場町や、中山道六十九次の宿場町など。
前史詳細は「駅家」を参照

中国では律令制の施行に伴い、国内に官道を張り巡らせて各地の連絡を図った。これら官道の往来はもっぱら馬によるものであり、このために途中で馬に対する給餌や馬の乗り換えが必要となった。また、急を要する手紙などを運ぶ場合、早馬によるリレー形式で繋いでいく方が効率的であり、それを行うには中継ぎの場が必須であった。また旅行者にとっても宿泊所や休息所がなければならない。これらの役割を果たすために駅伝制が導入され、駅が全国に設けられた。いち早く整備された東海道(関宿)。江戸時代の五街道の一つ。
日本における宿場の歴史

日本でもこれに倣って古代律令制の成立と共に駅伝制が導入され、各国の連絡のために東海道山陽道などの官道を整備し、駅(駅家)を各所に設けた[1]。中国同様、駅は官道を騎乗で往来する人々に便宜を図ると共に、駅備え付けの駅馬によって早馬を走らせて手紙や荷物を運ぶ役割を果たした[2]大化の改新の際の大宝律令で重要事項として駅や駅に置くなどの規定に触れており、実際に平安時代の法令集である『延喜式』では、各駅に配置する馬の頭数が事細かに記されている[3]。また陸上に限らず、渡し場である「水駅」も存在した。

これら駅伝制による「駅」の制度は平安時代末期の律令制の弛緩に伴い衰退し、「駅」という言葉自体も「宿」「宿場」などに取って代わられた。しかし、制度思想そのものは後々まで引き継がれ、江戸時代に整備された五街道制度にも生かされている。なお、リレー形式の長距離走を「駅伝」と呼ぶのは、駅(中継所)から駅までを伝えるという駅伝制にちなんでのことである。
近世の宿場

近世の宿場の整備は、徳川家康によって関ヶ原の合戦後に始められ、まず東海道、続いて中山道と順次進められていった。東海道では、慶長6年(1601年)に品川から大津までを53駅と定め、ここに東海道五十三次が始まった。しかし、全部が一度に設置されたわけではなく、順次整備されて最後に庄野宿が出来たのは、寛文元年(1624年)であった。

宿場では公用人馬継ぎ立てのため定められた人馬を常備し、不足のときには助郷を徴するようになった。また、公武の宿泊、休憩のため、問屋場本陣脇本陣などが置かれた。これらの公用のための労役、業務については利益を上げるのは難しかったが、幕府は、地子免許、各種給米の支給、拝借金貸与など種々の特典を与えることで、宿場の保護育成に努めた。ほかにも、一般旅行者を対象とする、旅籠木賃宿、茶屋、商店などが建ち並び、その宿泊・通行・荷物輸送などで利益を上げた。また、高札場も設けられていた。

伝令・輸送については、宿ごとに置かれた飛脚が宿から隣の宿までを走り(時には早馬を使うこともあった)、そこで次の飛脚にバトンタッチすることで、当時としては驚異のスピードで伝書などを渡すことが行われた。
明治時代以降

明治以降、鉄道開通などによって交通事情が変わってくると通行する人も少なくなり、衰微していった。周辺に鉄道駅が設置された場合は近代的な都市に発展したところもある。詳細は「名張市」を参照
宿場の諸施設東海道五十三次関宿を代表する旅籠の一つであった会津屋[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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