宸翰
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『紙本墨書伏見天皇宸翰御願文(正和二年二月九日)』(重要文化財京都国立博物館蔵)末尾。上代様の宸翰。「書聖」伏見天皇の作品の中でも白眉とされる。

宸翰(しんかん)は、天皇自筆の文書のこと。宸筆(しんぴつ)、親翰(しんかん)ともいう。鎌倉時代以降、室町時代までの宸翰の書風を特に宸翰様と呼ぶ。中世以前の天皇の真跡で現存するものは数が少なく、国宝重要文化財に指定されているものが多い。

鎌倉時代末期の伏見天皇を筆頭に、能書家の天皇が多かったため、日本の書道史上重要な作品も多い。著名な能書帝には伏見の他、「三筆」の一人に数えられる嵯峨天皇、伏見と共に宸翰様を代表する後醍醐天皇(およびその父の後宇多天皇)、後柏原院流を開いた後柏原天皇(およびその息子の後奈良天皇)などがいる。
国宝に指定されている宸翰

嵯峨天皇宸翰光定戒牒(延暦寺

高倉天皇宸翰消息(仁和寺

後鳥羽天皇宸翰御手印置文(水無瀬神宮[1][2]

後嵯峨天皇宸翰消息(仁和寺)

亀山天皇宸翰禅林寺御祈願文案(南禅寺

後宇多天皇宸翰弘法大師伝(大覚寺

後宇多天皇宸翰東寺興隆条々事書御添状(東寺

後宇多天皇宸翰御手印遺告(大覚寺)

後宇多天皇宸翰当流紹隆教誡(醍醐寺

後醍醐天皇宸翰四天王寺縁起(四天王寺

後醍醐天皇置文(大徳寺

後醍醐天皇宸翰天長印信(?牋)(醍醐寺)

三朝宸翰(前田育徳会)(花園天皇、後醍醐天皇、伏見天皇宸翰を含む)

熊野懐紙(西本願寺)(後鳥羽天皇宸翰を含む)

熊野懐紙(陽明文庫)(後鳥羽天皇宸翰を含む)

聖武天皇宸翰雑集(正倉院宝物)

聖武天皇奈良時代能書として光明皇后とともに有名であり、聖武天皇の宸翰と伝えられる書には以下のものがある。
雑集(ざっしゅう)(正倉院宝物)
聖武天皇の七七忌(四十九日)に光明皇后は先帝の冥福を祈って、珍宝、遺蔵品をまとめて東大寺大仏に献納した。この一巻もその一つで、『東大寺献物帳』所載の品である。本文は中国六朝仏教に関する詩文140数首を抄録したもので、白麻(はくま)素紙に楷書体で毎行18字、天地に横罫があり、全長30張(27×2135cm)の長巻である。奥書に「天平三年九月八日写了」とあり、天皇31歳の書である。書風は王羲之の『楽毅論』(がっきろん)に通じ、?遂良風とも言われる。なお、抄録された詩文は、いずれも中国ではすでに失われた詩文で、文学及び仏教資料的価値も高い。聖武天皇の自筆として確実なものは、他に静岡・平田寺の『聖武天皇勅書』(国宝)中の「勅」の1字のみである。
大聖武(東大寺ほか蔵)
荼毘紙(真弓紙)に書かれた奈良時代の大文字の写経である。古来聖武天皇の筆と伝承され、字粒が大きいことから「大聖武」と称して珍重されるが、上記「雑集」とは異筆である。東大寺の戒壇院に伝来したもので、東大寺、東京国立博物館、前田育徳会、白鶴美術館に巻子本として所蔵されるほか、古筆手鑑などに断簡がみられる。
嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』(部分)嵯峨天皇宸翰

嵯峨天皇は、空海橘逸勢とともに三筆と称される能書であり、嵯峨天皇の宸翰と伝えられるには以下のものがある。
光定戒牒(こうじょうかいじょう)(延暦寺蔵)
最澄の弟子の光定が、弘仁14年(823年)4月14日、延暦寺で菩薩戒を受けた時、朝廷から給せられる通知を執筆したものである。宸翰と断定できるのは、光定が撰した伝述一心戒文の中に「厳筆徴僧が戒牒を書し給ひ、恩勅之を賜ふ」と記されていることによる。楷行草を交えた荘重な書風で、空海に学んだものと推定される。
哭澄上人詩(こくちょうしょうにんし)(個人蔵、青蓮院伝来)[3]
弘仁13年(822年)最澄の入寂を悲しんだ嵯峨天皇の五言排律(12句60字)の詩で、宸翰と伝えられるが、自筆原本でなく写しであるとする説もある。草書体で気品に富み、大師風(空海の書風)が認められる。
李?百詠断簡(りきょうひゃくえいだんかん)(御物)
の詩人李?の百二十詩を行書体で書写した断簡(だんかん、切れ切れになった文書)である。用筆は変化に富み、純粋な唐風の書である。古来嵯峨天皇宸翰と伝えるが、現代の書道史では異筆とみなされている。
ギャラリー

聖武天皇勅書(「勅」字が宸筆)(静岡・平田寺)


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