宸翰様
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日本の書流(にほんのしょりゅう)とは、和様書の流派の総称である。平安時代中期の世尊寺流から分派した和様の流派が、江戸時代中期、御家流一系に収束するまでを本項の範囲とし、それ以外の著名な書流はその他の書流に記す。唐様は含めない。
概要

日本の書流は平安時代中期の和様の大成者、藤原行成を祖とする世尊寺流から始まり、鎌倉時代に入って主に世尊寺流から分派した数多くの書流が形成された。しかしその書流化により室町時代から和様書は形式化され、後期にはマンネリ化し沈滞してきた。江戸時代になると幕府が公用書体に御家流を採用し、また寺子屋でも御家流を教えるようになったことから、書流はほぼ御家流一系となり庶民にも広まった。
背景詳細は「日本の書道史#概観」を参照

江戸時代までの日本のは和様と唐様に大別される。本項の範囲は和様であるが、背景として唐様についても記す。
和様

奈良時代から平安時代にかけて盛行した王羲之の書風を根底として、平安時代中期に三跡小野道風藤原佐理藤原行成)らによって日本人らしい感覚の一つのスタイルが完成した。これを出発点として、平安時代末期に法性寺流鎌倉時代末期に青蓮院流、江戸時代には御家流と書流が変化してきたが、この系列に生まれた書を総称して和様という。
唐様

唐様とは中国の書風のことで、禅僧による唐様を特に墨跡と呼ぶ。
墨跡
詳細は「禅林墨跡」を参照

墨跡は鎌倉時代から江戸時代まで続いた。鎌倉時代はの書風で、中国の禅僧の間に流行した蘇軾黄庭堅米?張即之などの書を指し、の規範や伝統から解放された自由剛健なもので、奈良朝以来行われた線の軟らかい王羲之風のものとは全く趣きを異にするものである。宋の滅亡後、が興ったが、禅僧の往来は益々頻繁であった。室町時代の書風で、雪村友梅寂室元光らは趙孟?の影響を受けている。この時代も禅宗公家武家帰依を受け発展を続けた。また五山文学が盛行するとその禅僧の書風に日本趣向が加味された五山様が流行した。江戸時代の墨跡は、大徳寺妙心寺の禅僧と黄檗派の禅僧の書を言い、文徴明祝允明董其昌の書風が加味され、主として武家、漢学者、僧侶の間に用いられた。黄檗僧の中で隠元隆g木庵性?即非如一の3人は特に能書で黄檗の三筆と称された。
唐様

墨跡の中国書法が北島雪山細井広沢らに伝わり唐様として発展していく。唐様は儒者・文人などに用いられ、寂厳池大雅らが継承し、江戸時代末期には幕末の三筆と呼ばれる市河米庵巻菱湖貫名菘翁の3人へと展開していった。この3人は武家や儒者に信奉者が多く、特に江戸の市河米庵は諸大名にも門弟があり、その数5000人とも言われた。江戸時代中期頃から書法の研究が進み、これまでの元・の書風から晋唐の書風を提唱する者が現れ、巻菱湖・貫名菘翁らは派であり、市河米庵などは派であった。この2派の流れは明治時代になってからも続き、この幕末の三筆により明治時代以降、多くの著名な書家が綿々と輩出されている。詳細は「日本の漢字書家一覧」を参照

「売り家と唐様で書く三代目」とは、初代が築き上げた家産を3代目が使い果たして没落する様を皮肉った川柳であるが、ここでは唐様が遊芸の象徴として扱われている[1]
主な書流
世尊寺流

藤原行成に始まる家系を世尊寺家といい代々能書を輩出した。その世尊寺家の人々を中心とした書流を世尊寺流という。17代で終焉となったのち持明院基春が継承し持明院流として江戸時代まで続いた。世尊寺家6代伊行は日本最初の和様の書論書夜鶴庭訓抄』を遺し、また、7代伊経にも、藤原教長から授かった秘伝をまとめた書論書『才葉抄』がある。
法性寺流

藤原忠通を祖とする法性寺流が平安時代末期から流行し、九条兼実九条良経らが継承し鎌倉時代中期まで流行した。九条良経の書は後京極流と呼ばれた。
定家様

藤原定家の書風を定家様という。定家は初め法性寺流を学ぶが、その書は極めて個性的で、やがて独自の書風(定家流とも)を確立する。家系の人々はその書風を継承しなかったが、300年後の室町時代後期に冷泉為和によって復活(冷泉流とも)し、江戸時代には松平不昧小堀遠州などの大名茶人も好んでこの書風を書き流行した。
宸翰様後醍醐天皇文観房弘真作『後醍醐天皇宸翰天長印信(?牋)』(国宝醍醐寺蔵)

宸翰(しんかん)とは天皇の筆跡のことで、鎌倉時代以降、室町時代までの宸翰を特に宸翰様と呼ぶ。


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