家本政明
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家本 政明
(當麻 政明)

個人情報
誕生日 (1973-06-02) 1973年6月2日(49歳)
出身地 日本
広島県福山市
他職業サッカークラブスタッフ
→警備会社社員
プロフェッショナルレフェリー
国内
年リーグ役割
2002 - 2021Jリーグ主審
国際
年リーグ役割
2005 - 2016FIFA登録主審

家本 政明(いえもと まさあき、1973年6月2日 - )は、広島県福山市出身の元サッカー審判員。国際審判員・プロフェッショナルレフェリーも務めた。国際審判員としては、本名の「當麻 政明」(とうま まさあき、TOMA Masaaki)の名義を用いていた[1](「家本」は旧姓[2])。
来歴

福山葦陽高校時代はDFとしてプレーし、広島県選抜にも選出されたが、当時から激しい運動の後で吐血することがしばしばあった。同志社大学経済学部に進んでもサッカー部に入ったが、1年の夏にフィジカルトレーニング後に大量の吐血を経験し、ドクターストップがかかって選手としての現役続行を断念[3]。一転して大学とカイロプラクティックの専門学校に通いながら審判員を目指す。

大学卒業後の1996年Jリーグ・京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)を運営する株式会社京都パープルサンガに入社。同年に1級審判員を全国最年少で取得。しかし、クラブの方針で6年間は審判活動は行えず、クラブスタッフとしてチーム管理や試合運営の業務を担当した[3]。京都のマスコットキャラクター「コトノちゃん」の誕生にも関わったという[2]

2002年からはJ2リーグで主審、2004年以降はJ1リーグでも主審を務める。但し、京都パープルサンガの職員であったため、京都サンガが関連する試合で審判を務めることは出来なかった。2004年シミズオクトでのイベント警備の営業職を経て[2]2005年には国際主審に登録され、同年からは日本サッカー協会(JFA)のスペシャルレフェリー (SR) として活動している。

しかし、判定やピッチ上での行動に対して批判が相次ぎ「一貫性を持ったレフェリングが出来ていない」という理由でJFAから2006年9月12日付けで異例の1ヶ月間の研修(出場停止)を命じられた[4]。研修ののち、1ヶ月間香港で審判を務めた。結局、この年は再び国内で笛を吹くことはなかった。

2006年10月23日、JFA審判委員会が国際サッカー連盟(FIFA)に申請した2007年国際審判員の候補者28名のうち、7名いる国際主審に名を連ねた[5]

2007年1月2日全国高等学校サッカー選手権大会2回戦の野洲 - 真岡戦において主審を務め、国内での審判業に復帰した。2007年シーズンはJ1・J2ともに主審として復帰している。平均カード提示数はJリーグ全主審より多いものの、前年よりは減少している。「主審記録」を参照)

2008年3月、FUJI XEROX SUPER CUPでの判定を巡る騒動(後述)により、Jリーグ公式戦の無期限担当割り当て停止(2度目の出場停止処分)を受けた。その間も国際主審としての活動は(国際審判員の不足などを理由に)これまで通り行っており[6][7]AFCチャンピオンズリーグAFCカップで笛を吹いた。また国内ではJサテライトリーグや各クラブの練習試合を担当していたが、6月15日のJ2第20節、愛媛FC - 水戸ホーリーホック戦でJリーグ公式戦の主審に復帰している。さらに、7月12日のJ1第16節、大宮アルディージャ - ジュビロ磐田戦からはJ1リーグ戦の主審も再び担当している。

2010年5月24日、サッカーの聖地とも称されるウェンブリー・スタジアムにおいて、国際親善試合イングランド代表 - メキシコ代表戦で日本人初の主審を務める(副審に大塚晴弘名木利幸)。

また、2011年1月1日の天皇杯決勝戦や、同年12月3日のJ1第34節(清水エスパルス - ガンバ大阪[注釈 1]においても主審を務めるなど、徐々に大舞台での大役も任されるようになり、同年10月30日から審判員交流研修プログラムの一環としてイングランドへ派遣され、FAカップ1回戦のブレントフォードFCベイシンストーク・タウンFC戦の主審を務めた。FAカップでイングランドサッカー協会に登録していない審判が主審を務めるのは初めて[8]

2016年に国際審判員を引退したが国内のJリーグなどで引き続きプロフェッショナルレフェリーとして活動。2017年の退場者取り違え事件(後述)の後、審判を辞める気持ちに心が動いたが、当時日本サッカー協会審判戦略構想部会長を務めていたレイモンド・オリバーの「日本の審判員は(中略)フットボールの本質が見えていない。フットボールにとって大事なことは、皆がフットボールを楽しむこと」「選手に共感し、スタジアムに共感し、フットボールに共感することが大事なのだ。最少の笛とカードで、最大の喜びと美しさを創り出すことが大事なのだ」「(家本が“良いレフェリー”から“素晴らしいレフェリー”になるためには)競技規則の表面的なことから自由になって、フットボールのフィロソフィに忠実になる必要がある」といった言葉に感銘を受け[9]、ファウルやカードの数を大きく減らすなどレフェリングスタイルの再構築に取り組み、FUJI XEROX SUPER CUP2019の主審を任されるようになるなど高い評価を得られるようになっている[9]

2021年7月17日に担当したJ1第20節・サガン鳥栖 - 名古屋グランパス戦(駅前不動産スタジアム)をもって、Jリーグ担当試合数が503試合(J1:328試合、J2:173試合、J3:2試合)に達し、吉田寿光(2018年限りで1級審判員から引退)の持っていたJリーグ担当審判員(主審)最多出場試合数を更新した[10]

2021年11月1日、2021年シーズンをもって国内トップリーグを担当する審判員を退くことが日本サッカー協会から発表された[11]J1リーグの最終担当試合は2021年12月4日に行われた最終節・横浜F・マリノス川崎フロンターレ日産スタジアム)で、試合後には両チームの選手の作った花道を通ってピッチを後にし、両軍から記念ユニフォームが贈呈された。また、両チームのサポーターから労いの横断幕が掲出された[12]

2022年1月31日をもってJFAとのプロフェッショナルレフェリー契約が満了になるとともに、審判員資格・審判員指導者資格も更新しなかったことを自身のTwitterで明らかにした[13]。2022年3月23日に更新した自身のnote(ブログ)で、審判員引退後に公益社団法人日本プロサッカーリーグに入り、新設されたフットボール本部フットボール企画戦略部にてJリーグの魅力向上のための活動を行っていることを明らかにした[14]
経歴
選手歴

福山市立瀬戸小学校

福山市立済美中学校

福山葦陽高校

同志社大学

審判員歴

1992年 - 4級審判員

1993年 - 3級審判員

1994年 - 2級審判員

1996年 - 1級審判員
なお、当時は全国最年少の1級審判資格取得者でもあった。

2002年 - Jリーグ審判員に登録

2005年 - 2016年 国際主審登録

2005年 - スペシャルレフェリー(現プロフェッショナルレフェリー)登録

人物

自身のレフェリング方針は、「最小の笛で、最高の試合を」
[15]

福山市立瀬戸小学校および福山市立済美中学校時代の1年後輩に上村健一がいる。

プロフェッショナルレフェリーとなって以降、メディカルトレーナーで久保竜彦のリハビリを手がけた夏嶋隆と、大阪体育大学の指導者(当時)・坂本康博に師事していた[2]。特に夏嶋とは2008年のFUJI XEROX SUPER CUPのレフェリング(後述)で「半永久追放」状態となった際に夏嶋の元で診療所とトレーニング施設の手伝いを続けながらトレーニングに励み、夏嶋からの激励を受けつづけたことが審判を続けられた要因の一つだと述べている[3]

試合のない日は自作のトレーニングメニューにより毎日個人トレーニングを実施し、担当カードが決まると対戦する両チームの直近の3試合を見て、両チームの雰囲気や状況の把握に努めているという[16]

妻とは2007年末にプロポーズし2008年末に結婚。2008年のFUJI XEROX SUPER CUPのレフェリングが問題になり(後述)「半永久追放」状態になったときに精神的に支えてくれたのが妻であったといい、玉乃淳との対談では「あのとき彼女がいなかったら僕は今確実に審判を続けていないでしょう」と語っている[16]

また、玉乃との対談では、かつての自分のレフェリング(に批判が集まっていたこと)について「昔は血気盛んなただの世間知らずな鼻垂れ小僧でしたので、自分の考えや感情をうまくコントロールできなくて対応がうまくいかないこともあった」と述懐したうえで、「もちろん自分が未熟だからそうなっただけなので当然の報いです」と振り返っている[16]

JFAの審判委員会などの場を通じて、後にJFA専務理事となる実業家の須原清貴と出会ったのを機に論理的思考とビジネス感覚に関心を抱き、プロフェッショナルレフェリーを務めながらビジネススクールであるグロービス経営大学院を修了。この経験がレフェリングにも好影響を及ぼしたという[17]

ヨコハマ・フットボール映画祭2020での自身が登場するドキュメンタリー映画『審判?ピッチ上の、もうひとつのチーム』(監督:石井紘人)上映にて、ライブコメンタリーに挑戦、多くのファンの好評を得て、観客賞受賞に至る。

2020年に情報発信の場としてブログ (note) を開始。最初の話題は、2020年10月14日のJ2第26節・ヴァンフォーレ甲府ギラヴァンツ北九州山梨中銀スタジアム)での小鳥救出劇[注釈 2]の舞台裏について触れたものだった。

話題・問題となった主な試合・判定
2008年
FUJI XEROX SUPER CUP3月1日)、鹿島アントラーズ - サンフレッチェ広島
前半12分に鹿島DF岩政大樹が相手GKの持つボールに左ひざを出し、2枚目のイエローカードで退場。その後、広島MF李漢宰も前半38分に退場になる。鹿島が2点リードした後半33分に、広島FW久保竜彦が鹿島MF中後雅喜と競り合って倒れた際、鹿島DF青木剛のファウルと判定してPK。広島が同点に追いついて行われたPK戦では、副審の武田進が「キッカーが蹴るより先に前に動いた」と判定したのを受けて、鹿島GK曽ヶ端準の3度のPKセーブのうち2度をやり直させた。広島の勝利に終わった試合後に家本に詰め寄って猛抗議した曽ヶ端と中後にイエローカード、手を叩く仕草をしたとされた大岩剛にレッドカードを出した[19]。結局、両チーム合計でイエローカード11枚、レッドカード3枚が提示されたこの試合の判定は、その年最初のJリーグ公式戦であり、注目度の高いスーパーカップでのものだったこともあり、マスメディアでも家本の名前と共に大きく取り上げられた。試合後には、度重なる自チームに不利な判定に怒りを募らせたIN.FIGHTのサポーターがピッチに乱入する騒動となった。松崎康弘日本サッカー協会(JFA)審判委員長は「判定ひとつひとつは大きく間違っていないが、十分に試合をコントロールできなかった。選手の信頼を得られなかった」と指摘し[20]、鹿島MF小笠原満男からも「一番冷静であるべきレフェリーが感情的だった[19]」と批判されるなど、家本が選手からの信頼を未だに得られていないことが浮き彫りとなった。この件について鬼武健二Jリーグチェアマンからは「審判は反省しているはず」[21]川淵三郎JFAキャプテンからも「問題があったといわざるを得ない」[22] と苦言を呈された。


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