家事調停
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家事調停(かじちょうてい、: family mediation、family conciliation、: 家庭?解、: 家事調解、: Familienmediation、: mediation familiale、: ?? ??、西: mediacion familiar、: mediazione familiare)とは、家庭内又は親族間での紛争について、第三者が手続を主催して当事者間の合意による解決を目指すこと(調停手続)、あるいはこの手続により成立する合意そのものを言う。この記事では、司法当局の審理判断の対象となる紛争(この記事では「家事紛争」と言う。)について、裁判手続の代替(ADR[1])として法令の根拠に基づいて行われる、すなわち当該法域の公式の制度として行われる家事調停を中心に記述する。

家事紛争は誰もが当事者になる可能性のある紛争であり、家事調停の手続自体は当事者にとって容易に理解できるものである。また、以下で説明するとおり、家事調停は古くから世界各地で用いられてきた家事紛争の解決手続である。ところが、司法制度における家事調停の位置付けは、時代によっても同時代の法域相互でも、大きな差異がある。つまり、長年にわたって世界各地で膨大な数の家事調停が行われてきたのに、家事調停の制度設計には単一の最適解が見出されていない。家事調停には、このような意味での奥深さがある。
調停の紛争解決手続における位置付け(総論)

「社会あるところ、法あり(イタリア語版)」と言われるとおり、人が複数寄れば必ず紛争が生じ、その紛争を解決するための基準(法)も必要になる。「一方の意思を他方の意思に常に優先させる(支配・被支配の関係)」というのは一つの解決基準であるが、「当事者間の合意に従う」(Pacta sunt servanda)というのも別の解決基準である。合意は、当事者間の交渉によって成立する場合もあるが、第三者の仲介によって成立する場合もある。紛争当事者間の合意を第三者の仲介によって成立させようとする営みが、調停である。

調停は紛争解決手続の一種であるが、紛争解決手続にはその他にも様々な種類がある。

裁判ないし訴訟[2]は、公権力が当事者間の紛争の解決方法を一方的に(たとえ当事者が同意しなくても)設定する公式の手続である。裁判は、公権力が担い手である点で私人が恣意的に行う私刑と区別され(ただし、インド等におけるパンチャヤット panchayat のように私人に裁判権が授与されることもある。)、公式の手続である点で白色テロと区別され、公権力が当事者とは異なる第三者の立場で行う点で行政処分と区別され、一方的な権力作用である点でADRと区別される。逆に言うと、ADRは、いずれも何らかの意味で当事者間の合意を基礎としている。

和解[3]は、当事者間で紛争の解決方法を合意する手続である。和解は、第三者の介在を前提としない点で仲裁や調停と区別される(なお、日本で「裁判上の和解」と呼ばれる手続は、調停の一種(judicial mediation、法院?解)である。) 。

仲裁 arbitration は、当事者間の合意に基づき選定された第三者(仲裁人)が紛争の解決方法を一方的に設定する手続である。仲裁は、仲裁人の選定が当事者間の合意に基づく点で裁判と区別され、仲裁人が解決方法を一方的に設定する点で調停と区別される。

調停手続には、手続主宰者(調停機関)が積極的に解決案を提示・誘導する型(conciliation, evaluative mediation;この記事では「斡旋」(あっせん)と言う。)と、手続主宰者が進行指揮に徹する型(mediation, facilitative mediation;この記事では「合意支援」と言う。)とがある[4]。後述のとおり、家事紛争における合意支援は20世紀後半に急速に普及した手法である。
家事調停の歴史(総論)

調停は、世界各地で非常に古くから見られる。

中国本土の歴史書である『周礼』は「調人 掌司萬民之難而諧和之」(調人は万民の難を司り、これを調停する職務を担う。)と述べ[5]、『漢書』は「嗇夫職聽訟」(〔郷に置かれる〕嗇夫は訟を聴く職である。)と述べる[6]後漢書』には、母が子の不孝を訴えた事案に対して仇覧が行った家事調停が紹介されている[7]

中国本土では、明朝期から清朝期にかけて、前近代的裁判制度が一応の完成を見た。この時代の中国社会は、家族集団の浮沈が激しく、安定した地縁的共同体が形成され難い競争社会であったため、地縁的集団の紛争統制能力は限定的であった。紛争当事者は、同じ紛争を諦めがつくまで、紛争が生じた契約の立会人、地元の有力者、職能集団や宗族の長といった、より高位の権威者に次々に持ち込んで斡旋を依頼した[8]。このような、官から独立して行われた斡旋は、「民間調處」と呼ばれた[9]。当時の知州・知県(地方官)による裁判は、そのような民間調處の連鎖の先に連なる私益調整の場であると同時に、国家刑罰権の発動の場でもあった。すなわち、重い刑罰(徒・流・死)を科す権限は中央政府や督撫(総督、巡撫)が保持し、比較的軽い刑罰(笞・杖)を科す権限は地方官に与えられていた。したがって、地方官が裁判をするのは戸婚(婚姻・家庭関係事件)、田土(不動産関係事件)、銭債(金銭債務を中心とする債権債務関係事件)などの、刑罰を科すとしても比較的軽いものにとどまる事案であり、命(人が死亡した事件)、盗(強盗・窃盗事件)などの重い刑罰が予定される事案については、地方官は予審判事のような役割を担った[10]。私人が訴訟を提起すると、地方官は開廷の要否で事件を振り分け、開廷を要するときは当事者及び証人を召喚して尋問し、当事者に徒以上の重い刑罰を科すべきと判断すれば事件を上位者に送致し[11]、重い刑罰は不要と判断すれば自ら斡旋を行い(官府調處)、若しくは民間に命じて斡旋を行わせ(官批民調)、又は堂論(判決)を言い渡した。地方官が「批」と呼ばれる簡易な裁判を公示して審理を終了したり、結論を示さないまま単に審理を停めたりすることもあった[12]。このような審理過程において、当事者は示談したり、調停者の示す調停案に同意したり、堂論を受け容れたり[13]、あるいは単に訴訟を諦めたりして紛争を終結させていった[14]。このように、中国本土の前近代的紛争解決制度は、実質的にはかなり強圧的に強いたものであったとはいえ、形式的には当事者の合意ないし意思によって紛争が解決される体裁をとっていた。

日本でも、鎌倉時代に入る前後頃から和与と呼ばれる私的調停が行われるようになり、江戸時代には内済(ないさい)と呼ばれる一種の裁判所付託調停 court-referred mediation が盛んに行われた[15]。家事紛争について見ると、離婚は原則として夫と妻との間でいわゆる三行半(みくだりはん)を授受することによって成立したが、妻が夫から三行半の交付を得られないと考えたときは、縁切寺に逃げ込めば公私の権力を背景とする斡旋(一種の離婚調停)を享受することができた。

アラビア半島では、イスラーム教の成立前から酋長、占い師、療術士、影響力のある貴族といった人々が部族内外の紛争の仲裁を行っていた[16]。そして、イスラーム教の聖典であるクルアーンは、「妻が夫の暴虐や遺棄を憂いたとしても、夫婦が合意による解決を整えたならば、恥じることはない。善き解決は、かくあらねばならぬ。人の心は貪欲に流され易い。しかし、汝(なんじ)が善をなし、節度を保つならば、神は汝の仕業をみそなわす。」[17]、「もし汝が〔夫婦〕の間の不和を憂うならば、仲介人を、一人は男の一族から、もう一人は女の一族から選べ。もし彼らが和解を望むならば、神は彼らに調和を齎(もたら)されよう。神は全知全能であられるが故に。」[18] と説く。これがイスラーム法における家事調停の存在基盤である[19][20]。イスラーム教は離婚を禁じてはいないが、恥ずべきものと位置付けているため[21]、ムスリムにとっての家事調停とは、伝統的には、第三者が夫婦関係を維持し改善するよう夫婦を説得することを意味していた[22]

サブサハラに目を転じると、そこには ubuntu (ズールー語)、utu (スワヒリ語)などと表現される人生哲学が見られる[23]。これは「人は他人を通じて人となる。 Umuntu ngumuntu ngabantu. (A person is a person through other persons.)」、すなわち「人の人たる由縁は他者との関係性にある」という信念である[24]。したがって、紛争解決には、その紛争があることによって損なわれた神、霊、祖先、家族及び隣人との関係を創造し、回復させるという精神的側面があると捉えられている[25]。このような哲学の下で、手続面での差異はあるものの、多くの部族で、家、一族、村など社会の各階層の長老が手続を主導して紛争当事者や彼らを取り巻く関係者間に生じている問題を丸ごと解決することを目指す調停が行われてきた。

これらの文化圏は、合意形成が私人間の紛争解決の中核に据えられてきたことが似ているが、子細に見ると差異もある。

中国文化圏で古くから合意による紛争解決制度が発達した背景には、儒教が紛争や訴訟を恥ずべきものと位置づけ、訴訟を起こさせないのが優れた為政者の証であるとしたことが挙げられる[26]。つまり儒教は、市民の個性や自治を尊重したが故にADRを推奨したのではなく、政治権力の都合による(言わば「上からの」)訴訟忌避政策を採ったが故にADRを推奨したのである。このような訴訟観が市民の道徳規範として内面化されたか否かは議論があるが[27]、それはさておき、中国文化圏には、西欧の法体系を継受(けいじゅ。他の法域の法体系を自法域に包括的に導入すること)した後も、その法体系の中に相当広範な調停前置主義(後述)を取り込んだ法域が多い。市民の側に調停前置主義の導入に対する抵抗感が少なかった背景には、上記のような歴史的背景があったと言える。

これに対して、イスラーム教が合意に基づく紛争解決を推奨してきた背景には、所詮は人に過ぎない裁判官の法解釈能力や事実認定能力に懐疑的なことがあった[28]。裏を返せば、法が明確に明示されているときには調停を利用することはできない、ということにもなる[29]

他方で、サブサハラ文化圏の多くの法域では、欧米列強による植民地支配等を通じて西欧の法体系を継受した後も、民間の伝統的紛争解決制度が政府の司法制度に十分に統合されず、並列する正規の紛争解決制度とされている(この点が上述の中国文化圏の諸法域と異なる。)[30][31]


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