家事使用人
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日本の現行法における家事使用人については「家庭内労働者#日本の法制」をご覧ください。

家事使用人(かじしようにん)は他者の家庭において屋内の作業を行う職業。英語圏では Domestic worker、Domestic servant などという。中世的な召使い・家臣から近代的な労働者への過渡的な存在であり、自分の意志で主人(雇用者)を選ぶ自由を持ったが、主人と対等な人格を認められることはなく、全面的な服従を求められた。衒示的消費の典型として、中流階級の繁栄とともに多くの労働人口、特に産業革命によって伝統的家族経済が崩壊し現金収入のために労働せざるを得なくなった女性を引きつけ、19世紀末から20世紀初頭までのイギリスにおいて最大の職業集団となった。ヴィクトリア朝イギリスに通底する「家庭の天使」、「完全な淑女」といった理念を支え、リスペクタビリティやスノビズムと深く結びついていたため、ヴィクトリア朝を象徴する職業の一つといわれる。

20世紀前半までは圧倒的にフルタイム・住み込みでの形態が主流であったが、20世紀半ばまでにはその様な雇用形態の家事使用人は廃れ、現在ではオ・ペア(au pair, 語学留学などの際、ホスト・ファミリーの家事を手伝うかわりに少額の謝礼が支払われる)やパートタイムの家事労働者が主流となっている。
概説
歴史的前提としての奉公制度

家事使用人の作業内容という点から見ると、同様の職業は人類の歴史上いたる所にみることができる。奴隷労働力が安価に供給されていた古代社会においては家内奴隷の仕事であり、自由民の仕事ではなかった。農業などの主たる産業の生産を奴隷に依存していなかった古代エジプトメソポタミアのような社会でも、家事労働に従事する家内奴隷は一般的だったのである。しかし中世になると、少なくとも西ヨーロッパにおいて、奴隷制はあまり一般的ではなくなり、それと共に家事労働についてまわった奴隷身分という烙印も薄れていく。特に中世のイングランドでは、若い貴族がより高位の貴族の屋敷において行儀見習いの一環として奉公するという慣習が存在していた。清教徒革命による社会混乱を期に男性の紳士見習いは下火となったが、それ以降も、貴族女性は自分の身近に置く侍女は良家出身者から選び続けていた[1]

これら奉公人は必ずしも貴族の屋敷のみで見られた存在ではない。多くの奉公人が出身とした、小農場主たちの家庭においても奉公人たちの姿は見ることができた。生家を離れ、自分と同じか、より上位の階層に属する「家族」に入り、独立し世帯を構えることが可能となるまでの期間を過ごすという習慣は、当時のイギリス社会における広範な階層において見られた奉公制度の一環であった。なお当時の「家族」は、家計を共にする集団全体を意味し、血縁のみならず奉公人までも含んでいたため、社会的に高位なほど、多くの奉公人を受け入れる事となり、「家族」の規模は大きくなった。この様な大家族では「家族」全体が家父長の支配・監督下に置かれており、奉公人たちは衣食住を保障される代わりに、「子供」に似た地位にある存在として「父親」である家長にほぼ全面的に従属していた。なぜなら当時の共同体を構成する単位は個人ではなく、家長を中心とした家族であったため、家長のみが世帯主として共同体における権利を主張できたのであり、彼との関係が無ければ、奉公人に限らず「家族」の成員は社会的にいかなる発言権も持っていなかった[2]
家族関係の変化

従属的な立場にあったとはいえ、中小の農場主たちの世帯においては本当の家族の様に手厚く扱われることも少なくなかったようである。小農場主の妻であれば奉公人と並んで家事を行うことも珍しくはなく、奉公人との社会的出自も大きくは違わなかったため、しばしば見分けがつかないこともあった[3]。主人と奉公人、両者の間の峻別が進むのは18世紀のことである。産業革命囲い込みによって生じた伝統的家族経済から消費者経済への転換は、生産単位でもあった「家族」を単なる消費の場へと変化させた[4]。それに伴い、家族の延長であった奉公人も共同体から切り離された労働者である使用人としての性質を強めていく。

主人とサーヴァントとの社会的立場の乖離は別の要因からも加速された。農業革命以降、イギリス農業は効率化を推し進めヨーロッパにおける農業先進国としての地位を確立していたが、農業生産の増加と穀物価格の上昇は農場主たちの経済力を確実に向上させ、18世紀末までには料理人や複数の使用人を雇用することを可能にしていた。このことは、かつては家事使用人と並んで家事や農作業を行っていた農場主の妻たちが家事と家業から手を引くことを意味した[5]。使用人たちを働かせ妻をあらゆる種類の労働から引き離しておく事は家長たる夫の経済力の証明となり、それはやがてリスペクタビリティを示す上で不可欠なこととなっていく。
雇用者の増加

農場主が複数の家事使用人を雇用可能になったことと平行して、家事使用人を雇用することが可能な、潜在的な主人たちが増加を始めていた。元々、家事使用人を雇用していた人々は主に地主貴族、農場主など農村における有力者、いわば農業資本家たちであったが、商業革命の結果、商人や専門職など中間層と呼ばれる人々が興隆し始めたのである。彼らが新たな雇い主となり家事使用人の数は急速に増加し、17世紀までに役人、専門職、商人などは男性に比べ安価な女性使用人を雇用しているようになっていた[6]。その後、ミドルクラスの成長と足並みを揃えながら、家事使用人の数は増加の一途をたどり、19世紀末から20世紀初頭に最盛期を迎える。その背景にある要因として、家事使用人の雇用が衒示的消費の最たるものであったこと、そのために所属階級の指標と見なされていたことが挙げられる。またイギリス帝国の拡大に伴う本国における深刻な女性人口の過剰、そして何より他に選択肢となりうる職業の欠如も挙げられる。
女性使用人への転換

中世においては貴婦人の侍女や洗濯婦を除くと家事使用人の職はほぼ男性によって占められていた[7]。その要因として中世までの使用人はその根本的な性質において封建的な家臣であり、有事の際には戦力として見做されたこと[8][9]、また伝統的な家族経済においてはそもそも女性が現金収入のために正規の労働力として働きに出る必要が無かったことが挙げられる。

しかし、この男女比は18世紀後半を境に大きく変化する。アメリカ独立戦争の戦費を賄うため、全ての室内男性使用人に対し課税が行われるよう(使用人税)になると、多くの職において男性に代わり女性が雇用されるようになった[10]。その他にも男性使用人の賃金が高騰した上に、事あるごとに主人や来客に対し「心付け」を要求するなど、「反抗的な」態度がしばしば指摘され、そのために、より従順で扱いやすいと考えられた女性が使用人に適すと考えられたことを忘れてはならない。女性使用人の先天的性質を服従と忠誠に結びつける事は言うまでもなく「幻想」であったのだが、産業革命の進展にともない家事使用人に代わる雇用が生まれ、立場が向上した男性とは異なり、同じ産業革命により伝統的な仕事(糸紡ぎなど)が失われたにもかかわらず、鉱山周辺や新興工業都市以外では家事使用人に代わる雇用が存在しなかった為、女性使用人は男性使用人より従順にならざるを得なかった。

ただ、使用人税を境に大きく減少したものの、男性は依然として家事使用人として重要な役割を占めていた。コストの点では圧倒的に女性使用人が安価であったが、男性使用人はその高いコスト故に衒示的消費としての価値を高めたためである。
家事使用人の衰退期「家庭内労働者」も参照

第一次世界大戦は人類史上初の総力戦であり、イギリスも他国の例に漏れず、全国民、全産業を挙げて戦争に協力し、家事使用人も例外ではなかった。男性、特に若者たちを給仕や従者などに従事させていることが批判されたのに加え、愛国心に駆られた雇用者たちが使用人に対して従軍を奨めることもしばしば行われた。彼らはイギリスに勝利をもたらすべく屋敷を離れ、戦場あるいは工場へと職場を変えていった。男性使用人のみならず、女性使用人にとっても第一次世界大戦は一つの転機であった。多くの男性人口が軍隊に流入した結果、男性によって占められていた工場労働者、店員、事務員といった職が極端な人手不足となったのである。これらの欠員を埋めるべく、臨時に他産業から労働資源の再配分が行われた。女性労働人口の大部分が従事し、イギリス国内において最大の職業人口を誇った“domestic service”がその供給源となったのである。

家事使用人たちが新たに得た職は戦争終結と同時に復員した男性によって再び占められることとなるが、家事使用人以外の選択肢が示されたという点で、この一時的な解放は大きな意味を持った。これ以降、使用人たちは以前から感じていた不満(雇い主との差別待遇、私生活に対する干渉、いつ終わるとも知れない労働など)をより強く意識するようになる。自由を求める家事使用人と従来の「節度」を守らせようとする雇用者の軋轢は第二次世界大戦を経て更に続き、多くの人々が家事使用人ではなく、タイピストなどの新しい職業を選択する。戦後の社会変化で(多人数の)家事使用人を雇用する生活自体が過去のもの、あるいは特権的なものとなるにつれ(20世紀末以降は王室や日本皇族邸にいるのみ)、かつては中流以上のすべての世帯で見られた家事使用人の存在はごく限られた一部の富裕層にしか見られない「貴重品」となっていった。
日本での歴史

日本では大宝律令から始まる律令制で資人(5位以上に与えられる)が存在した。また、官戸家人、公奴婢・私奴婢のような奴隷の形で存在した。平安中期になると、下人所従のような私的隷属民が現れるが南北朝時代で自立し、次第に年季奉公という形になっていく[11][12]
家事使用人をめぐる言説
二つの国民

当時のイギリス社会には富める者と貧しい者を別々の「二つの国民」として捉える考え方が存在していた。ディズレーリに由来するこの言葉は単純な経済状態のみならず、社会的、政治的な立ち位置をも含んだ概念である。


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