艦歴
計画1941年度(マル急計画)
起工1943年8月25日
進水1944年9月25日
竣工1945年1月31日
除籍1945年10月5日
その後復員輸送任務
1947年中国に引き渡し
1963年除籍解体
要目(計画)
排水量基準:2,701英トン
公試:3,470トン
全長134.2m
全幅11.6m
吃水4.15m
機関ロ号艦本式缶3基
艦本式タービン2基
2軸 52,000馬力
速力33.0ノット
航続距離18ノットで8,000海里
燃料重油:1,080トン
乗員263名/452名[1]
兵装
(1945年)65口径10cm連装高角砲 4基8門
25mm機銃 3連装7基
同単装機銃 数不明
61cm4連装魚雷発射管 1基4門
(九三式魚雷8本)
九四式爆雷投射器2基
爆雷投下軌条2条(推定)
九五式爆雷 54個
電探
(1945年)22号1基
13号2基
水測兵装九三式探信儀1基
(九三式水中聴音機1基)[2]
宵月(よいづき/よひづき)は、日本海軍の駆逐艦[3]。秋月型駆逐艦[4] の10番艦[5]。
艦名は宵の月、夕方の月の意味[6]。
目次
1 艦歴
1.1 日本時代
1.2 中華民国時代
2 歴代艦長
2.1 艤装員長
2.2 駆逐艦長
3 逸話
4 参考文献
5 脚注
6 関連項目
艦歴
日本時代 1946年に撮られた宵月
1941年(昭和16年)度計画(マル急計画)による乙型一等駆逐艦の第363号艦として、浦賀船渠で1943年(昭和18年)8月25日に起工[7]。当初は三菱長崎造船所で建造される予定であったが、線表改訂により浦賀での建造に変更された[8]。本艦は、秋月型駆逐艦のうち浦賀船渠で建造された唯一の艦である。
1944年(昭和19年)5月10日、姉妹艦「春月」や海防艦等と共に命名[3]。9月25日に進水[7]。12月5日、日本海軍は白露型駆逐艦7番艦「海風」艦長(沈没時)[9][10]、夕雲型駆逐艦18番艦「秋霜」艦長(沈没時)[11][12] 等を歴任した中尾小太郎
中佐を宵月艤装員長に任命する[13]。12月31日を竣工予定としていたが、機関部で事故が発生(造船所造機部関係者1名殉職)、竣工日を延期した[14]。1945年(昭和20年)1月31日に竣工[7][14]。中尾中佐も宵月駆逐艦長(初代)に任命された[15]。主要人員は、航海長堀剣二郎中尉、砲術長荒木一雄大尉、水雷長山崎照陰大尉、機関長有馬俊彦大尉[15]。2月5日附で呉鎮守府籍となった[16]。就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完海軍少将・海軍兵学校41期)に編入されるも[17]、瀬戸内海回航用の燃料の確保に時間がかかり[18]、回航日は大幅に繰り下げられた。
2月10日、かねて病のため交代を予定されていた中尾中佐(宵月艦長)[17] は佐世保鎮守府附となる[19]。日本海軍は、吹雪型駆逐艦9番艦「磯波」艦長(沈没時)[20]、神風型5番艦「旗風」艦長[21]、陽炎型15番艦「野分」艦長[22][23] 等を歴任した荒木政臣中佐(当時、吹雪型20番艦潮駆逐艦長)[19][23] を宵月駆逐艦長(二代目)に任命した[19]。2月16日、荒木政臣中佐が本艦に着任[17][24]。艦長室での事務引き継ぎ中に空襲警報が出る[17][25]。横須賀で待機中に硫黄島の戦いの援護で関東地方に空襲を仕掛けてきた第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機と交戦[26]。敵機がかなりの低空だったため、四十九門の機銃による対空砲戦を行った[17][24]。約一時間ほどの対空戦闘で撃墜グラマンF6F2機と報告[27]。