日本の政治家宮澤 喜一みやざわ きいち
内閣広報室より公表された肖像(内閣総理大臣時)
生年月日1919年10月8日
出生地 日本 東京府東京市
没年月日 (2007-06-28) 2007年6月28日(87歳没)
死没地 日本 東京都渋谷区
出身校旧制武蔵高等学校(現・武蔵大学、武蔵高等学校中学校)
東京帝国大学(現・東京大学)法学部政治学科卒業
前職大蔵省大臣秘書官
所属政党(自由党→)
自由民主党(加藤派→堀内派)
称号法学士(東京帝国大学・1941年)
広島県名誉県民
福山市名誉市民
配偶者宮澤庸子
親族小川平吉(祖父)
宮澤裕(父)
小川平二(叔父)
斎藤樹(義叔父)
宮澤弘(弟)
小川元(従弟)
宮澤洋一(甥)
宮澤エマ(孫)
第78代 内閣総理大臣
内閣宮澤内閣
宮澤改造内閣
在任期間1991年11月5日 - 1993年8月9日
天皇上皇(明仁)
初代 財務大臣
内閣第2次森改造内閣 (中央省庁再編後)
在任期間2001年1月6日 - 2001年4月26日
第88-89・105-107代 大蔵大臣
内閣第3次中曽根内閣
竹下内閣小渕内閣
小渕第1次改造内閣
小渕第2次改造内閣
第1次森内閣
第2次森内閣
第2次森改造内閣 (中央省庁再編前)
在任期間1986年7月22日 - 1988年12月9日1998年7月30日 - 2001年1月6日
第18代 農林水産大臣(総理兼任)
内閣宮澤改造内閣
在任期間1993年8月4日 - 1993年8月9日
第56代 郵政大臣(総理兼任)
内閣宮澤改造内閣
在任期間1993年7月20日 - 1993年8月9日
その他の職歴
副総理
(竹下内閣)
(1987年11月6日 - 1988年12月9日)
第40代 内閣官房長官
(鈴木善幸内閣、鈴木善幸改造内閣)
(1980年7月17日 - 1982年11月27日)
第12-13・17-18・29代 経済企画庁長官
(第2次池田第2次改造内閣、第2次池田第3次改造内閣、第3次池田内閣)
(1962年7月18日 - 1964年7月18日)(第1次佐藤第3次改造内閣、第2次佐藤内閣、
第2次佐藤第1次改造内閣)
(1966年12月3日 - 1968年11月30日)(福田赳夫改造内閣)
(1977年11月28日 - 1978年12月7日)
第98代 外務大臣
(三木内閣)
(1974年12月9日 - 1976年9月15日)
第30代 通商産業大臣
(第3次佐藤内閣)
(1970年1月14日 - 1971年7月5日)
衆議院議員
(旧広島3区→)
(広島7区→)
比例中国ブロック
当選回数 12回
(1967年1月29日 - 2003年10月10日)
参議院議員
広島県選挙区
当選回数 2回
(1953年5月3日 - 1965年6月1日)
第15代 自由民主党総裁
(1991年10月31日 - 1993年7月30日)
第24代 自由民主党総務会長
(総裁:中曽根康弘)
(1984年 - 1984年)
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宮澤 喜一(みやざわ きいち、1919年〈大正8年〉10月8日 - 2007年〈平成19年〉6月28日)は、日本の大蔵官僚、政治家。
内閣総理大臣(第78代)、財務大臣(初代)、大蔵大臣(第88・89・105・106・107代)、農林水産大臣(第18代)、郵政大臣(第56代)、副総理(竹下内閣)、内閣官房長官(第44代)、外務大臣(第98代)、通商産業大臣(第30代)、経済企画庁長官(第12・13・17・18・29代)、衆議院議員(12期)、参議院議員(2期)、自由民主党総裁(第15代)、自由民主党総務会長を歴任した。55年体制最後の内閣総理大臣。愛称はキー坊[要出典]。 宮澤裕・こと夫妻の長男として東京市に生まれた。本籍地は広島県福山市[1]。母・ことは司法大臣、鉄道大臣などを歴任した小川平吉の二女。関東大震災後、母方の祖父小川平吉の別荘である平塚の「花水庵」で過ごす。父の裕は当時山下汽船に勤務していたが、すでに政界を志し、広島県から国会へ進出しようとして着々と準備を進めていた[2]。 東京高師附属小学校(現・筑波大学附属小学校)から旧制武蔵高等学校(現・武蔵高等学校中学校から武蔵大学)に入学。時流の軍国主義には染まらず、「辛辣な反軍的冗談を飛ばしていた」[3]。東京帝国大学(現・東京大学)法学部政治学科卒業。在学中の1939年(昭和14年)、第6回日米学生会議に参加のため渡米した。日本からは、宮澤喜一、村井七郎、奈良靖彦、苫米地俊博、山室勇臣ら各大学から男女合わせて48名の大学生が参加、夫人と知り合ったきっかけとなり、後に日米首脳会談後のスピーチで日米学生会議で妻と出会ったことを披露した[4]。 宮澤三兄弟の幼少のころを知る従姉妹の和田貞子によれば、「三人はいずれも二歳違いで、とても仲の良い兄弟でした。住まいは東京でしたが、夏になると伯父(裕)の故郷であるこの福山に帰ってきて、海水浴などにでかけていました。お母さんのいうことをよく聞き、礼儀正しい子でしたね。とくに喜一先生は小学校高学年のころから議論好きで、何かというと議論していました。高校、東大に通われるころ、私は東京の家にお手伝いにいっていたのですが、そのころは勉強ばかりしていたのが印象的です」という[5]。 学生時代のことを、宮澤は次のように語っている。「私達の学生時代はご承知のような時代だったから、あんまり思い出というほどのものもないが、よく能をみて歩いた。ただ、家があまり裕福でなかったのに能の切符はその頃一円ぐらいして非常に高かったので、それを買うのが大変だった。能が好きになったのは両親の影響もあったのだろう。母が謡をやっていて、私も中学から大学まで謡をならった。若いときにやったから一応はちゃんとうたえるようになった。能のほかには当時の学生と同じようによく映画をみ、レコードを買ってきいた。神田の神保町に中古のレコード屋があって、よく買いにいったものだ…」[6]。 1942年(昭和17年)1月、大蔵省に入省した(配属は大臣官房企画課〈為替局兼務〉)[7]。沼津税務署長などを経て、終戦時には本省で戦争保険を担当していた。1945年(昭和20年)8月、東久邇宮内閣が発足すると、大平正芳と共に津島壽一蔵相秘書官となる。
生涯
出生から学生時代まで
大蔵官僚として