宮澤 俊義1953年
人物情報
生誕 (1899-03-06) 1899年3月6日
日本、長野県長野市
死没 (1976-09-04) 1976年9月4日(77歳没)
出身校東京帝国大学法学部
学問
時代1925年 - 1976年(東京帝国大学助教授着任以降)
研究分野憲法学
研究機関東京大学、立教大学
特筆すべき概念大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を法的に解釈した八月革命説を提唱
公共の福祉の解釈における一元的内在説などを提唱
影響を
受けた人物美濃部達吉
影響を
与えた人物佐藤功、小嶋和司、芦部信喜、奥平康弘、深瀬忠一
主な受賞歴文化功労者(1969年)
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宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年(明治32年)3月6日 - 1976年(昭和51年)9月4日[1])は、日本の法学者。専攻は憲法。東京大学名誉教授。立教大学法学部元教授。貴族院議員。日本野球機構(プロ野球)コミッショナー。日本国憲法の制定に寄与し、憲法学の権威と謳われた[2][3]。 1899年(明治32年)3月6日、長野県長野市に生まれる。旧制長野中学、東京府立四中、第一高等学校を卒業。 1923年、東京帝国大学法学部卒業後、美濃部達吉の助手(弟子)となり、1925年、同大学法学部助教授となる。1930年から1932年にかけて、フランス、ドイツ、アメリカへ留学。帰国後の1934年、東京帝国大学法学部教授(憲法学第一講座)となり、美濃部達吉の後継者として憲法講座を担当した。 旧憲法下においては、批判的合理主義の立場から、独裁制やファシズムのイデオロギーを批判的に分析する論文が多く、第二次世界大戦後は、日本国憲法の制定時に学術面から寄与し、後の憲法学界に多大な影響を残した。司法試験などの受験界では「宮沢説」として知られる「八月革命説」は通説とされ、弟子の芦部信喜以下東大の教授陣に引き継がれた。 1946年、貴族院議員としても、日本国憲法制定の審議に参加した(議員勅選、6月8日[4]。無所属倶楽部所属。1947年5月2日退任[1])。 1949年10月5日、日本学士院会員となる。同年11月、文化庁による第1期国語審議会の副会長に就任[5]。 1959年に東京大学を定年退官し、東京大学名誉教授。末延三次らと共に、立教大学法学部の創設に尽力。同年、立教大学法学部教授・初代法学部長に就任(担当は憲法第1部・第2部、フランス公法)。 1965年、立教大学教授職と兼務し、日本野球機構(プロ野球)コミッショナーに就任。 1969年、立教大学法学部教授を定年で退任する。(その後1年間は特別講師として憲法の講義担当した。)同1969年には、勲一等瑞宝章受章、文化功労者にも選出された[2][6]。 趣味も広く、エッセイストとしても有名である。長男の宮澤彬は日本銀行監事を務めた。 没後、宮澤の蔵書は「宮澤俊義文庫」として立教大学に寄贈され、約9,000冊の旧蔵書は複本として学生たちにも利用され、図書と共に保管されてきた日本国憲法起草に関する原稿・草案・メモ・ノートなどは、学外も含めた研究者に利用されている。憲法制定にいたる経緯が分かる貴重な資料となっている[2]。 晩年、カトリック教会に入信する。洗礼名は、使徒ヨハネ。 学説は時宜に伴い変化した。 戦前、大日本帝国憲法の講義の際、「憲法第一条から第三条まで、これは神話です。法学の対象になりません。省きます」として進歩的立場を示していた。 1935年に天皇機関説事件が発生して師の美濃部が激しく攻撃された時には、東大で憲法学を教えていた宮澤も激しい批判の対象とされた。蓑田胸喜によれば、「美濃部達吉氏に対してと共に厳粛に司法行政的処置がなさるべきである」[7]「国体国憲に対する無学無信の反逆思想家が帝大憲法教授たることは学術的にも法律的にも断じて許さるべきではない」[8]とされた。 国体明徴声明で天皇機関説が公式に否定されて以降は、これに積極的に異議申し立てをすることはなかった。戦時下の東大法学部の阿諛追従ぶりを批判した小田村寅二郎によれば、1937年度の法学部講義では天皇の統治権についての説明を行わずにこの問題を回避していた[9]。 大政翼賛会については、『改造』1941年1月号掲載の論文「体制翼賛運動の法理的性格」において、万民翼賛は帝国憲法のみならず、肇国以来の憲法の大原則である、として積極的に擁護し、議会制民主主義を時局にそぐわず不十分である、と論じた[10]。 終戦直後は、天皇機関説事件の以前と同様に帝国憲法の立憲主義的要素を擁護し、美濃部と同じく改正不要の立場を表明していた[11]。しかし1946年3月までには、憲法改正は平和国家の建設を目指すものだ、との主張に転じた[12]。その後、1946年5月には[13]大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を法的に解釈した八月革命説を提唱する。八月革命説とは、大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を、1945年8月におけるポツダム宣言の受諾により、主権原理が天皇主権から国民主権へと革命的に変動したとすることにより、説明する議論である。この主権原理の変動により、大日本帝国憲法の内容も大きく変容し、国民主権原理と両立し得ない部分は、その効力を失った。こうした変容を被った大日本帝国憲法は、日本国憲法と法的に連続している。つまり、変容後の大日本帝国憲法の改正として、日本国憲法の成立は説明できるとするものである。 その他では、法哲学者である尾高朝雄との尾高・宮沢論争(国体論争)も有名で、その他公共の福祉の解釈における一元的内在制約説の主張など、後の憲法学界に多大な影響を残した。 帝国憲法下における帝国議会を国民の代表として位置づける美濃部の議論に対して、帝国議会の議員は有権者から命令委任を受けておらず、したがって、真の意味において帝国議会は国民の代表とは言えないとする批判を展開した。この議論は、国会および国会議員を国民の代表とする日本国憲法43条のいう「代表」とは、法的意味ではなく、政治的意味の代表にとどまるとする現在の通説に引き継がれている。 公共の福祉に関する一元的内在制約説とは、憲法の保障する基本権を制約する根拠となるのは、他の人々の基本権でしかあり得ないとの前提から、こうした基本権相互の矛盾・抵触を調整する実質的公平の原理が公共の福祉であるとするものである。ただ、この議論は、基本権の制約根拠は他の基本権以外にも容易に想定できるのではないかとの批判や、他者の基本権を侵害しえないことは、各基本権の保護範囲の存在によってより説得的に説明し得るのではないかとの批判を被っている。
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