宮沢賢治
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宮澤健二」とは別人です。

宮沢 賢治
(みやざわ けんじ)
1924年1月12日[注釈 1]撮影
誕生宮沢 賢治
(1896-08-27) 1896年8月27日
日本岩手県稗貫郡花巻川口町
(現・花巻市
死没 (1933-09-21) 1933年9月21日(37歳没)
日本・岩手県稗貫郡花巻町
(現・花巻市)
墓地身照寺(花巻市)
職業詩人
童話作家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴盛岡高等農林学校
(農学得業士[2]
(現・岩手大学農学部
活動期間1918年 - 1933年
ジャンル
童話
サイエンス・フィクション
仏教哲学
主題詩・童話・短編小説
文学活動理想主義[3]
代表作『注文の多い料理店』(1924年)
銀河鉄道の夜
風の又三郎
ポラーノの広場
グスコーブドリの伝記
よだかの星
セロ弾きのゴーシュ
雨ニモマケズ
デビュー作『春と修羅』(1924年)
親族宮澤政次郎(父)
宮澤清六(弟)
トシ、シゲ、クニ(妹)
影響を受けたもの

萩原朔太郎
山村暮鳥
田中智學
アンデルセン

影響を与えたもの

多くの日本の作家

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宮沢 賢治(みやざわ けんじ、正字: 宮澤 賢治、1896年明治29年〉8月27日 - 1933年昭和8年〉9月21日)は、日本詩人童話作家

仏教法華経)信仰と農民生活に根ざした創作を行った。作品中に登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県モチーフとしてイーハトーヴ(Ihatov、イーハトヴやイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られる。彼の作品は生前ほとんど一般には知られず無名に近く、没後、草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていき、今でも日本には広く愛好者が存在する。主な作品は後節を参照。
生涯
幼少期・少年期生家
(賢治在世当時の建物は現存しない)1902年の小正月、 5歳の賢治(右)と3歳のトシ(左)

1896年明治29年)8月27日、父宮澤政次郎と母イチの長男として岩手県花巻川口町(現:花巻市)に生まれる。戸籍上の誕生日は8月1日で生前の賢治も履歴書に1日と書いているが、27日と推定されている[注釈 2]。母イチの実家、鍛冶町の宮澤善治家で出生したが、5日後の8月31日、秋田県東部を震源とする陸羽地震が発生。イチは賢治を収容したエジコ (乳幼児を入れ守る籠) を両手で抱えながら上体を覆って念仏を唱えていたという[5]。政次郎は仕事で旅行中だったため、政次郎の弟の治三郎が「賢治」と名付けた[4]

3歳の頃、婚家から出戻っていた父の姉であるヤギが「正信偈」「白骨の御文章」を唱えるのを聞き覚え、一緒に仏前で暗唱していたという[6]1902年(明治35年)、赤痢で2週間入院。賢治を看病した政次郎も感染し、大腸カタルを起こして胃腸が生涯弱くなった[7][8]1903年(明治36年)、花巻川口尋常小学校(2年後に花城尋常小学校へ改名)に入学。成績は優秀で6年間全科目甲だった。3年と4年を担任した八木英三は生徒たちに『未だ見ぬ親』(五来素川翻案によるマロ作『家なき子』)や『海に塩のあるわけ』(民話海の水はなぜ辛い』)などの童話を話して聞かせ、賢治に大いに影響を与えた[9]。後に賢治は八木と再会した折に「私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです」と語っている[10]鉱物採集、昆虫標本づくりに熱中するようになり、11歳の頃に家族から「石コ賢さん」とあだ名をつけられる[11]。父の主催する花巻仏教会の夏季講習会にも参加、招いた講師の暁烏敏の世話係もした[12]盛岡中学在学時の賢治

1909年(明治42年)4月、岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学。寄宿舎「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}自彊(じきょう)寮」に入寮。祖父の喜助は商人の息子で跡継ぎの賢治に学問は不要という考えで、父の政次郎が説得して進学させた。家業の古着屋を嫌っていた賢治は将来を悲観し、成績は落ち込んでゆく[13]。鉱物採集や星座に熱中、岩手山南昌山、鞍掛山など盛岡近在の山を歩き、大量の岩石標本を集めた[14]。3年生の頃から石川啄木の影響を受けた短歌を制作[15]1913年大正2年)、4年生の時、二学期から交代した新しい舎監に生徒たちが夜中足を踏み鳴らすなどの嫌がらせを行ったため、4、5年生全員が退寮させられるという事件が発生。賢治は盛岡市北山の清養院に下宿する[16]

1914年(大正3年)3月、盛岡中学卒業。4月、盛岡市岩手病院に入院、肥厚性鼻炎の手術を受ける。術後も熱が下がらず、発疹チフスの疑いで5月末まで入院。この時看病に当たった政次郎も感染して入院。自分の看病で2度も倒れた父に賢治は後までも負い目を感じていたという。入院中に出会った岩手病院の看護婦に思いを寄せ、退院後、両親に結婚したいと申し出たが「若すぎる」という理由で反対される[17][18]


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