宮本茂
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議論の要約:作品一覧項目で、発売日順に並んでいた作品名がゲーム機のくくりで並べ替えられた編集の是非について

みやもと しげる
宮本 茂
文化功労者顕彰に際して
公表された肖像写真
生誕 (1952-11-16) 1952年11月16日(71歳)
日本 京都府船井郡園部町
(現:南丹市
国籍 日本
出身校金沢美術工芸大学[1]
職業ゲームプロデューサー[2]
代表作ドンキーコングシリーズ
マリオシリーズ
ゼルダの伝説シリーズ
肩書き任天堂株式会社代表取締役フェロー
署名

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宮本 茂(みやもと しげる、1952年11月16日 - [3])は、日本ゲームプロデューサー任天堂株式会社代表取締役フェロー[4][2]。同社の情報開発本部本部長専務、クリエイティブフェローなどを歴任。

マリオシリーズ』、『ゼルダの伝説シリーズ』、『ドンキーコングシリーズ』などの生みの親として知られる[3]2019年にゲーム関係者としては史上初となる文化功労者に選定された。
来歴
生い立ち

京都府船井郡園部町(現:南丹市)に生まれる[1]。中学時代はバスケットボール部に所属していたが、そこに籍を置いたまま漫画クラブを立ち上げようとしたことから上級生とトラブルを起こしてしまった。その後、レギュラーメンバーであったバスケットボール部を辞め、漫画クラブの部員として活動した[5]赤塚不二夫手塚治虫白土三平などの漫画に影響を受け、漫画家を目指したこともあったが、周囲との実力の差を感じ、その夢を断念する[6]

高校時代は軽音楽クラブに出入りしギターを教わっていたが、あまり上達せず中途半端で止めてしまう[5]

京都府立園部高等学校卒業後は金沢美術工芸大学に入学し工業デザインを専攻[1][6]。講義に取り組む宮本の姿勢は独特だったらしく、担当教授からは、卒業後に普通に就職せずにアクセサリーデザイナーになるよう勧められたという[6]
任天堂入社宮本茂、E3 2013

1977年に金沢美術工芸大学を卒業後[7]任天堂に入社。マスプロ製品をデザインする仕事に就きたいという考えに加え[6]、ユニークな商品を数多く発売している社風に興味を抱いたことが志望動機であった。当時の任天堂はデザイナーの募集を行っていなかったが、宮本の父が任天堂社長・山内溥と友人だったこともあり、特例で面接の機会を得ることが出来た。当初、山内は乗り気ではなかったものの、宮本は自作のハンガーなどを持ち込んで積極的なプレゼンを行ったことで山内の「ものづくりができる社員が欲しい」という眼鏡に適い、人事との調整後に入社が決まった。なお、宮本は、ユニークな商品が事業的に失敗していることを入社後に知り、唖然としたという。

入社直後は企画部に配属され[1]かるた版下のデザインや麻雀のラベル作成など小さな仕事をこなしていたが、1979年からアーケードゲームシェリフ』『スペースファイアバード』などの筐体デザインや家庭用ゲーム機ブロック崩し』などの本体デザインを手掛けるようになる。1979年に稼動を開始したアーケードゲーム『スペースフィーバー』では筐体デザインだけでなくキャラクターデザインも担当した。

入社3年目の1980年に、Nintendo of America(任天堂のアメリカ現地法人)でアーケードゲーム基板の在庫を大量に抱える問題が発生したことを受け、同基板を活用して新しいゲームを作るための会議が任天堂本社で行われた。この中で、開発部門の部長を務める横井軍平が、それまでソフトウェア開発に携わっていなかった宮本を抜擢し、宮本を中心としたゲーム制作が行われることになった。開発当初はアメリカン・コミックの『ポパイ』を題材とする予定だったが、版権問題により頓挫。その後、宮本はキャラクターを描き直した上でプログラミング以外の作業をほぼ1人で担当、1981年に『ドンキーコング』を完成させ、これが世界的なヒットを記録した。また、この作品は後に任天堂の看板キャラクターとなる「マリオ」のデビュー作になった。

これ以降、宮本はしばしば横井と共にゲーム開発を行うことになる。横井からさまざまな考え方や作り方を学んでおり、宮本自身も「横井は自分の師匠だと思っている」と語っている。横井の開発理念は、その後の宮本にも受け継がれている[8][9]

その後、山内の「100人の凡才より1人の天才」という考えから、任天堂ゲームの中心的開発者となり、1983年に新設された情報開発部の開発課長に就任。部門の実務リーダーになった。

1996年、情報開発部は情報開発本部に格上げされ、宮本は情報開発本部情報開発部長に就任。1998年、情報開発本部長に就任。2000年6月、取締役に就任。岩田聡新社長の体制発足と同時に、2002年5月31日、代表取締役専務に就任。その後、2015年9月16日付で、権限委譲などによる後継者育成のため[10]君島達己新社長就任などの人事に合わせ、情報開発本部長を退任してクリエイティブフェローに就任。後任のソフトウェア開発部門トップは、高橋伸也取締役企画制作本部長[11][12]


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