宮本武蔵
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「宮本武蔵」のその他の用法については「宮本武蔵 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

鉄道駅については「宮本武蔵駅」をご覧ください。

 凡例宮本 武蔵
宮本武蔵肖像
島田美術館蔵。熊本県指定文化財)[1]
時代江戸時代
生誕天正12年(1584年)?
死没正保2年5月19日1645年6月13日
改名幼名:辨助(または弁助・弁之助)
別名藤原玄信、新免武蔵守、新免玄信、新免武蔵、宮本二天、宮本武蔵
戒名二天道楽居士
墓所武蔵塚(熊本県熊本市北区
主君黒田如水水野勝成
父母新免無二
子養子:三木之助伊織
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宮本 武蔵(みやもと むさし)は、江戸時代初期の剣術家大名家に仕えた兵法家芸術家二刀を用いる二天一流兵法の開祖。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名である。

後世には、演劇小説漫画映画やアニメなど様々な映像作品の題材になり、現代では「剣豪」または「剣聖」と称されている[2]。特に吉川英治小説『宮本武蔵』が有名であるが、史実と異なった創作が多い。外国語にも翻訳され出版されている自著『五輪書』には十三歳から二十九歳までの六十余度の勝負に無敗と記載[注釈 1]がある。

絵画武具馬具制作も頻繁にしていた過去があり、国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』といった水墨画木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。

島田美術館が所蔵する有名な肖像画は作者不詳[1]だが、身体を緩めている様は『五輪書』が説く極意に一致しており、自画像とする説もある[2]
名前

本姓藤原氏[注釈 2]名字は宮本、または新免。幼名は辨助[注釈 3](べんのすけ)、通称百官名)は武蔵は玄信(はるのぶ)である。は二天、また二天道楽。著書『五輪書』の中では新免武蔵守・藤原玄信と名乗っている。

熊本市弓削墓碑は「新免武蔵居士」、養子宮本伊織が武蔵の死後9年目の承応3年(1654年)に建てた「新免武蔵玄信二天居士碑」(以下、小倉碑文)には「播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士」とある。

武蔵死後71年目の『本朝武芸小伝』(1716年)で政名なる名が紹介された。これを引用した系図伝記、武蔵供養塔が広く紹介されたことから諱を「政名」とする武蔵の小説や紹介書が多数あるが、二天一流門弟や小倉宮本家の史料にこの「政名」は用いられていない。逆に史的信頼性が完全に否定された武蔵系図等で積極的に用いられている。
出生
生年

『五輪書』の冒頭にある記述「歳つもりて六十」に従えば、寛永20年(1643年)に数え年60歳となり、生年は天正12年(1584年)となる。

江戸後期にまとめられた『小倉宮本家系図』[注釈 4]、並びに武蔵を宮本氏歴代年譜の筆頭に置く『宮本氏正統記』には天正10年(1582年)に生まれ、正保2年(1645年)享年64で没したと記されている。
出生地

『五輪書』に「生国播磨」の記載があり、養子・伊織が建立した『小倉碑文』、江戸中期の地誌播磨鑑』や泊神社棟札兵庫県加古川市木村)等の記載による播磨生誕説(現在の兵庫県高砂市米田町)と、江戸時代後期の地誌『東作誌』の美作国岡山県東部)宮本村で生まれたという記載による美作生誕説がある。
出自詳細は「新免無二」を参照

[注釈 5]赤松氏の支流・新免氏の一族・新免無二とされているが異説もある。

『小倉宮本系図』には武蔵の養子・伊織の祖父で別所氏の家臣・田原家貞を実父とし、武蔵はその次男であるとされているが、伊織自身による『泊神社棟札』や『小倉碑文』にはそのことは記されていない。また、武蔵や伊織に関する多くの記事を載せている江戸中期に平野庸脩が作成した地誌『播磨鑑』にも武蔵が田原家の出であるとはまったく触れられていない[注釈 6]
生涯宮本武蔵初決闘の地を記念した石碑(兵庫県佐用町平福

『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利し、16歳で但馬国の秋山という強力な兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を行い、全てに勝利したと記述される。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書[3] が存在することから、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い[注釈 7][注釈 8][注釈 9]

『五輪書』には21歳の頃に[注釈 10]、京都で天下の兵法者(吉岡一門と考えられる) と数度戦ったが全てに勝利した旨の記述がある。この内容は吉川英治宮本武蔵』をはじめ多くの著名な文芸作品の題材とされている。

武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に豊前小倉藩領(現在は山口県下関市域)の舟島(巌流島)で、岩流なる兵法者[注釈 11]と戦ったとされるものである。この内容は江戸時代より現代に至るまで芝居、浄瑠璃、浮世絵、小説、映像作品など様々な大衆文芸作品の題材となっている。

大坂の陣では水野勝成客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている[注釈 12]

その後、姫路藩主・本多忠刻と交流を持ちながら活動。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭(本松寺、円珠院、雲晴寺)を行っている。この時期、神道夢想流開祖・夢想権之助と明石で試合を行ったことが伝えられている[注釈 13]

元和の初めの頃、水野家臣・中川志摩之助の三男・三木之助を養子とし、姫路藩主・本多忠刻に出仕させる。

寛永元年(1624年)、尾張国(現在の愛知県西部)に立ち寄った際、円明流を指導する。その後も尾張藩家老・寺尾直政の要請に弟子の竹村与右衛門を推薦し尾張藩に円明流が伝えられる。以後、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆する。

寛永3年(1626年)播磨の地侍・田原久光の次男・伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石藩主・小笠原忠真に出仕させる[注釈 14]

寛永期、吉原遊廓[注釈 15] 開祖・庄司甚右衛門が記した『青楼年暦考』に、寛永15年(1638年)の島原の乱へ武蔵が出陣する際の物語[注釈 16]が語られ、直前まで江戸に滞在していたことが伝えられている。同様の内容は庄司道恕斎勝富が享保5年(1720年)に記した『洞房語園』にもあり、吉原名主の並木源左衛門、山田三之丞が宮本武蔵の弟子であった旨が記されている。これらの史料に書かれた内容は隆慶一郎などの文芸作品の題材となっている。

島原の乱では、小倉藩主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡藩主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術高田又兵衛と試合したことが伝えられている。武蔵塚(熊本県熊本市北区

寛永17年(1640年)、熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。7人扶持18に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、鷹狩り[注釈 17]が許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。同じく客分の足利義輝遺児・足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年に忠利が急死したあとも2代藩主・細川光尚によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として、藩士がこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃、余暇に制作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。

水前寺成趣園内にある細川忠利の像

細川氏

宮本武蔵

江戸幕府

寛永20年(1643年)、熊本市近郊の金峰山にある岩戸・霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『独行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子・寺尾孫之允に与えている。大原町美作国

正保2年5月19日1645年6月13日)、千葉城(熊本)の屋敷で亡くなる。享年62。墓は熊本県熊本市北区龍田町弓削の武蔵塚公園内にある通称「武蔵塚」。福岡県北九州市小倉北区赤坂の手向山には、養子伊織による武蔵関係最古の記録の一つである『新免武蔵玄信二天居士碑』(通称『小倉碑文』)がある。

武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。また、孫之允の弟子の一人柴任三左衛門福岡藩黒田家に二天一流を伝えている。
決闘伝説に関する諸説
吉岡家との戦い宮本吉岡決闘之地の石碑(堀正平建立。京都府京都市左京区 一乗寺下り松
通説

『五輪書』には「廿一歳にして[注釈 10]都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるという事なし」と記述される。この「天下の兵法者」は、『小倉碑文』に記された「扶桑第一之兵術吉岡」すなわち吉岡家と考えられる。

決闘の経緯は『小倉碑文』の記録を要約すると以下の通りとなる。武蔵は京に上り「扶桑第一之兵術」の吉岡一門と戦った。吉岡家は代々足利将軍家の師範で、「扶桑第一兵術者」の号であった。


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