宮本常一
[Wikipedia|▼Menu]

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: "宮本常一" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2018年12月)

宮本 常一『逓信協会雑誌』1961年8月号より
人物情報
全名宮本 常一
生誕 (1907-08-01) 1907年8月1日
日本 山口県大島郡家室西方村
死没 (1981-01-30) 1981年1月30日(73歳没)
日本 東京都府中市都立府中病院
出身校大阪府立天王寺師範学校
学問
時代昭和時代
活動地域 日本
研究分野民俗学 農政学 観光学
研究機関アチックミューゼアム
日本観光文化研究所
学位文学博士東洋大学、1961年)
称号東和町名誉町民
武蔵野美術大学名誉教授
主要な作品『忘れられた日本人』
『日本の離島』
『民俗学への旅』
影響を
受けた人物渋沢敬三
柳田國男
影響を
与えた人物網野善彦
司馬遼太郎
姫田忠義
香月洋一郎
エバレット・ケネディ・ブラウン
学会日本民俗学会
主な受賞歴第9回日本エッセイスト・クラブ賞
勲三等瑞宝章
テンプレートを表示

宮本 常一(みやもと つねいち、1907年8月1日 - 1981年1月30日)は、日本民俗学者、農村指導者、社会教育家。目次

1 経歴

2 学風

3 年譜

4 著書

4.1 著作集

4.2 単著

4.3 共編著

4.4 編著

4.5 主な調査報告

4.6 監修ほか

4.7 写真集ほか


5 DVD・ビデオ

6 関連文献

7 脚注

7.1 出典


8 参考文献

9 外部リンク

経歴

山口県屋代島(周防大島)生まれ。大阪府立天王寺師範学校(現大阪教育大学)専攻科卒業。

学生時代に柳田國男の研究に関心を示し、その後渋沢敬三に見込まれて食客となり、本格的に民俗学の研究を行うようになった。
1930年代から1981年に亡くなるまで、生涯に渡り日本各地をフィールドワークし続け(1200軒以上の民家に宿泊したと言われる)、膨大な記録を残した。
宮本の民俗学は、非常に幅が広く後年は観光学研究のさきがけとしても活躍した。民俗学の分野では特に生活用具や技術に関心を寄せ、民具学という新たな領域を築いた。
宮本が所属したアチックミューゼアムは、後に日本常民文化研究所となり、神奈川大学に吸収され網野善彦らの活動の場となった。
学風

宮本の学問はもとより民俗学の枠に収まるものではないが、民俗学研究者としては漂泊民や被差別民、性などの問題を重視したため、柳田國男の学閥からは無視・冷遇された。

20世紀末になって再評価の機運が高まった。益田勝実は宮本を評し、柳田民俗学が個や物や地域性を出発点にしつつもそれらを捨象して日本全体に普遍化しようとする傾向が強かったのに対し、宮本は自身も柳田民俗学から出発しつつも、渋沢から学んだ民具という視点、文献史学の方法論を取り入れることで、柳田民俗学を乗り越えようとしたと位置づけている(論考新版は『説話文学と絵巻ほか 益田勝実の仕事1』に収録、ちくま学芸文庫)。

宮本が残した調査記録の相当部分は別集も含め、長年にわたり刊行した『宮本常一著作集』(未來社)で把握できるが、未収録の記録も少なくない。
年譜

1907年(明治40年) - 山口県周防大島東和町の農家に生まれる[1]。生家は善根宿でもあった。

1922年(大正11年) - 地元の小学校を卒業後、家を継いで農家となる[1]

1923年(大正12年) - 父の勧めで大阪の叔父の世話になり大阪逓信講習所に入所[1]

1924年(大正13年) - 大阪逓信講習所卒業、4月高麗橋郵便局に勤務[2]

1926年(大正15年) - 大阪府立天王寺師範学校第二部入学[2]

1927年(昭和2年) - 大阪府立天王寺師範学校卒業、泉南郡有真香村修斉尋常小学校(現・岸和田市立修斉小学校)に赴任する[3]

1928年(昭和3年) - 大阪府立天王寺師範学校専攻科入学[3]

1929年(昭和4年) - 大阪府立天王寺師範学校専攻科卒業、泉南郡田尻尋常小学校(現・田尻町立小学校)に赴任[4]

1930年(昭和5年) - 肺結核により休職、周防大島で療養[4]。療養中に『旅と伝説』に論文などを投稿するようになり、それらが柳田國男の目にとまり書翰を送られる[4]

1932年(昭和7年) - 泉北郡北池田尋常高等小学校 (現・和泉市立北池田小学校)に復職[5]

1933年(昭和8年) - 小谷方明らとガリ版雑誌「口承文学」を出版[5]。1936年まで12号を出す[6]。また私家版の歌集『歌集 樹蔭』を出す[7]

1934年(昭和9年) - 泉北郡養徳小学校尋常小学校に転任[7]。この年、柳田國男と会う。小谷方明の世話で大阪民俗談話会(のちの近畿民俗学会)を開く。

1935年(昭和10年) - 室戸台風のため養徳小学校が廃校となり、泉北郡取石尋常小学校(現・高石市立小学校取石小学校)に転任[8]。この年、大阪民俗談話会で渋沢敬三と出会う[8]。柳田國男還暦記念講習会に出席[8]。講習会中、渋沢のアチック・ミューゼアムを見学[8]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:67 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef