宮廷道化師
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ウィリアム・メリット・チェイスによる宮廷道化師。

宮廷道化師(きゅうていどうけし、: jester)とは、王侯貴族に雇われた道化師エンターテイナー

世界各地に存在したが、特に中世ヨーロッパテューダー朝イギリスの者を指す。現代でもヨーロッパの歴史再現の催し物で見ることができる。中世の宮廷道化師は色鮮やかなまだら模様(: motley)の服装と風変わりな帽子を被っており、先にあげた現代のものはこの服装を模倣している。中世の宮廷道化師たちは、物語を語ったり、歌や音楽、アクロバットジャグリング奇術など様々な芸を披露して楽しませてきた。また、おどけた調子で芸を披露し、当時の事柄や人物を笑いにした歌や話を創作した。
名称について

「宮廷道化師」を意味するjesterという英語は16世紀半ば、テューダー朝の時代までは使用されていなかった[1]。この時期よりも前は様々な名称で呼ばれていた。例えばgestourやjestour、fol、disour、bourderなどである。これらの名称を持つものは、それぞれ得意とする分野は違うが観客を楽しませる役割において多くの類似点を見ることのできるものである[2][3][4]
王・貴族との関係笑う道化師、1500年頃。

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーは愚者の役割について、以下のように述べている。

王家では古くは愚者を雇い、中世には宮廷道化師を召抱えていました。ルネサンス期には英国の貴族たちは自由な振る舞いを認めた道化師を召抱えていました。彼らは他の召使いと同様の服装なこともありましたが、多くはまだら模様のコートとロバの耳がついたフードか道化の帽子と鈴を身につけていました。ペットかマスコットのように扱われ、主人を楽しませるためだけでなく批判をするために仕えていました。エリザベス1世は彼女の道化師に対し、あまりにも(主人に対する批判が)厳しすぎると叱責したそうです。しかしながら行き過ぎた行動は鞭打ちにつながるかもしれません、リア王が道化師を脅したときのように[5]

愚者は2つのタイプに分けることが出来る。先天的なものと自由な言動を認められたものである。両者はともにその振る舞いを許されていたが、前者は愚かしくまたは狂っているように見えるので「どうしようもない」という理由からその言動を許されていた。後者は取り決めによってその言動を許されていた。

愚者であることは王家や貴族の間では特権の一つとして認められていました。その愚かさは狂人のたわごととみなされることもありましたが、多くの場合は神聖なものに触発された結果とみなされました。「自然な」愚者は神に触れられたのです。ゴネリルの不快感の多くは、リア王が好き勝手にさせた愚者が特権的地位を享受していることにあります。彼の特徴的な言葉は人工的なものではなく「自然な」愚者であることを示していますが、その洞察力やウィットから見えるものは馬鹿とは程遠い人物です、やはり「触れられた」存在なのでしょう[5]

デビッド・カーライオンは怪しげな伝承から生まれた「大胆不敵で政治的な道化師」に疑問を投げかけている。カーライオンは、”大衆文化がピエロに対して持つ感傷的なイメージを、作家が道化師で再生産しているのである。学術分野ではトリックスターが同様で、分析としてあやまっている”、と自らの説を結んでいる[6]

道化師は誰もが伝えたくないような悪い知らせを王に伝えることができた。最良の例としては、1340年にフランス艦隊がスロイスの海戦でイングランドに敗れた際の逸話がある。フィリップ6世の道化師は「イングランドの船乗りは勇敢なフランス人のように海に飛び込む勇気は持ち合わせていないでしょう」と語った[7]
歴史
イギリスヘンリー8世の道化師ウィル・ソマーズ(英語版)、17世紀の版画。ジェームズ1世 (イングランド王)とその息子チャールズ1世 (イングランド王)に仕えたアーチボルト・アームストロング。辛辣な毒舌が愛され、王の側近ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)や大司教ウィリアム・ロードさえも痛罵したことで知られる[8]

イングランドの王家は代々エンターテイナーや、自由な言動を認められた職業的な愚者を召抱えてきた。芸人は音楽やジャグリング、曲芸、謎かけなどを披露した。ヘンリー8世はウィル・ソマーズ(英語版)という名の道化師を召抱えていた。

エリザベス1世ジェームズ1世が治めていた頃、ウィリアム・シェイクスピアは後に国王一座と呼ばれる宮内大臣一座で脚本を書き、演じた。道化師たちはシェークスピアの劇に登場し、Fooled upon Fooleを著したロバート・アーミン(英語版)は道化役を得意としていた。十二夜に登場する道化師フェステのセリフには「賢いからこそ馬鹿を演じられる」というものがある。

スコットランド王ジェームズ6世もまたアーチボルド・アームストロングという道化師を召抱えていた。アームストロングは非常に大きな栄誉を与えられていたが、過度に思い上がり、あまりにも多くの人々を侮辱したため王宮を追放された。このことは不名誉なことであったにもかかわらず彼の言動を記した本はロンドンで販売された。彼の影響力はチャールズ1世の治世におけるアイルランドの植民地化の頃はまだいくらか残っていた。チャールズ1世は後にジェフリー・ハドソンという非常に人気のある忠実な道化師を召抱えた。彼は身長が低く「忠実なドワーフ(矮人)」と称された。彼の芸の一つは巨大なパイに隠れて、そこから跳躍して現れるものであった。彼はイングランド内戦では王党派である騎士党として戦った。マックル・ジョンはチャールズ1世の3番目の道化師である。
伝統の終焉ミュンヘンの旧市庁舎にあるドイツの道化師像。

チャールズ1世がイングランド内戦で敗れたとき、英国における伝統的な宮廷道化師の歴史は終焉を迎えた。護国卿オリバー・クロムウェルが治めるイングランド共和国に道化師の居場所は存在しなかった。イングランドの演劇界も痛手を受け、相当な数の役者たちがいくらか状況の良いアイルランドへと移った[要出典]。

王政復古後のイングランドではチャールズ2世は宮廷道化師の伝統を復活させなかったが、演劇界を強力に支援した、特にトマス・キリグルー(英語版)を好んでいた。キリグルーは道化師ではなかったが、サミュエル・ピープスは彼の有名な日記で「王の道化師である、人をあざけったり罵ったりしても罰を与えられることはない権力を持っている」(1668年2月12日)と評した。英国貴族で最後まで道化師を召抱えていたのはエリザベス2世母親の家系であるボーズ=ライアン家であった。

18世紀にはロシアとスペイン、ドイツを除いて道化師はいなくなった。

フランスとイタリアでは、旅回りの道化師たちはコンメディア・デッラルテにおいて様式化された人物としてパフォーマンスを行った。これは英国のパンチとジュディという人形劇の元となった。フランスではフランス革命とともに道化師の伝統は幕を下ろした。

1968年に伝統ある古くからの愚者を復活させるため、カナダ政府の組織であるカナダ芸術評議会(英語版)はバンクーバーのJoachim Foikisに3500ドルの助成金を与えた[9][10]

21世紀になっても、道化師は中世をモチーフにした祭りやパジェントで見ることができる。
その他の地域

古代エジプトにはファラオを楽しませる道化師がいた。


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