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宮川 粂次郎(みやかわ くめじろう、天保3年(1832年) - 明治8年(1875年)3月7日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての人物。新選組局長・近藤勇の次兄。天然理心流門人。幼名は粂蔵。諱は宗信。宗兵衛、惣兵衛、総兵衛とも。一時、佐藤姓を名乗った。 農民である宮川久次郎の次男として誕生し、嘉永元年(1848年)、弟・勝五郎(後の勇)に説得されて、しぶしぶ近藤周助の天然理心流に入門。盗賊相手に勝負を挑もうとするなど[1]、血気に逸る性格で腕も立つが、剣術の稽古には不熱心だったといわれる。その後、多摩郡野中新田の佐藤家に婿養子として迎えられ、佐藤宗兵衛と名乗るが、安政2年(1855年)に佐藤家と離縁し宮川家へ戻る。 元治元年(1864年)、京都へ上洛。禁門の変を間近で見聞し、兄・宮川音五郎へ弟・勇が率いる新選組の様子を手紙で伝えた。慶応元年(1865年)10月、郷里に帰る。
生涯
脚注^ 新選組辞典、2003年12月15日発行、43頁。