お笑いコンビ「宮川大助・花子」のメンバーの「宮川大助」とは別人です。
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}宮川(みやがわ) 大輔(だいすけ)
特許庁平成30年1月25日_Vol.36_2・3月号「とっきょ」(2018年)
本名宮川 大輔
ニックネームお祭り男
生年月日 (1972-09-16) 1972年9月16日(51歳)
出身地 日本・滋賀県大津市
血液型B型
身長172 cm
言語日本語
方言関西弁・滋賀弁・大阪弁
最終学歴京都西高等学校
(現・京都外大西高等学校)
出身NSC大阪校9期
コンビ名チュパチャップス(1990年 - 1999年)
相方星田英利(コンビ時代)
芸風コント(元ツッコミ)
リアクション芸
話芸
立ち位置右(コンビ時代)
事務所吉本興業
活動時期1990年 -
同期ナインティナイン
川畑泰史
矢野・兵動
へびいちご
杉岡みどり
よゐこ
飯尾和樹(ずん)
天野ひろゆき(キャイ?ン)
日村勇紀(バナナマン)など
現在の代表番組世界の果てまでイッテQ!
満天☆青空レストラン
過去の代表番組バラエティ番組
本番で?す!
人志松本の○○な話
笑神様は突然に…
中居大輔と本田翼と夜な夜なラブ子さん
炎の体育会TV
テレビドラマ
シバトラ?童顔刑事・柴田竹虎?
チーム・バチスタの栄光
銭ゲバ
赤めだか
崖っぷちホテル!
配偶者既婚
親族父母、姉
公式サイト宮川大輔の365日
宮川 大輔(みやがわ だいすけ、1972年〈昭和47年〉9月16日 - )は、日本のお笑いタレント、俳優。吉本興業所属。
滋賀県大津市比叡平出身。既婚。事務所の先輩である宮川大助(宮川大助・花子)とは同音異字[注 1]。 京都市にあるバプテスト病院にて生まれる。家族は、両親と、姉が1人。小学校2年から高校3年まで滋賀県大津市比叡平育ち。大津市立比叡平小学校、大津市立皇子山中学校(バレーボール部)[1]、京都西高等学校(現:京都外大西高等学校)卒業。 高校3年生の時に、父親の同級生である桑原征平(当時:関西テレビアナウンサー)の紹介で、同期生から2か月遅れながらもNSC大阪校(吉本興業直営のタレント養成所)へ入学した。当時は役者志望で「そういうコースもある」と聞いての入学だったが、いざ入学すると生徒は全員芸人志望だったため結局お笑いをやる事となった[2]。 1991年3月、同期の星田英利とコンビ『チュパチャップス』を結成[3]。 同年より、同期のナインティナイン(宮川が入った時にはナイナイの2人は学費未納で中退していた)等と共に、お笑いユニット『吉本印天然素材』に参加する。なお、宮川は当時メンバーの中で最年少であった。 1997年、25歳の時に結婚[2]。妻の本名等は明らかにしていないが、『マーコ』というあだ名で本人や芸人仲間の話すエピソードに登場している。当時金銭的に挙げられなかった結婚式を、結婚13年目にハワイで挙げている[4]。 1999年、天然素材からナインティナインと雨上がり決死隊が抜けたため天然素材が解散。チュパチャップスとしての仕事もなくなり、星田とのコンビ仲は著しく悪化した。宮川は星田へ解散を申し込み、星田からの了承を得てコンビを解散させた。コンビ解消後は本来の志望に沿って活動の中心を舞台公演に移した[2]。 2000年、宮本亜門演出の舞台『BOYS TIME』のオーディションに1万人の中から合格し役者デビューとなった[2]。2001年にルミネtheよしもとがオープンすると、会社からのオファーで吉本新喜劇に出演するようになり芸人の仕事に復帰する。 『人志松本のすべらない話』シリーズ(フジテレビ)は2004年の初回放送から毎回出演している。後にスピンオフ企画として『大輔宮川のすべらない話』がCSフジテレビ721で放送された。 2007年より、『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ)にて宮川が「お祭り男」として世界各地のお祭りに参加する企画「世界で一番盛り上がるのは何祭り?」が全国的な人気を博し、老若男女問わず幅広い層の人気を獲得した。2015年には人気のある祭りを選び、宮川のインタビュー等を収録した本が発売された[5]。 2010年12月2日に第1子男児が誕生[6]。名前は「健太」であることを明らかにしている。
来歴
人物
神田明神にある四角い鉄製の「弘化四年銘の鉄製天水桶」は、母方の先祖の鋳物職人・永瀬源七らが鋳造し奉納した物で、千代田区指定有形民俗文化財になっている[7]。永瀬源七は大輔から5代前の先祖である。
父方の祖父の芳太郎は、出身地の石川県金沢市から丁稚奉公で京都へ出た後に、京都市の中心部・烏丸通沿いで小物店を経営。59歳の時に脳卒中で倒れてからは、実父の雅次が経営を引き継いだ。実母は芳太郎が経営していた時期の従業員[8]で、画家の久保和子は伯母に当たる。