宮崎道三郎
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宮崎 道三郎
人物情報
生誕 (1855-10-14) 1855年10月14日安政2年9月4日
伊勢国安濃郡津新道(現・三重県津市
死没 (1928-04-18) 1928年4月18日(72歳没)
国籍 日本
出身校開成学校
東京大学法学部
ハイデルベルク大学
ゲッティンゲン大学
ライプツィヒ大学
学問
研究分野法学ローマ法ゲルマン法
研究機関ハイデルベルク大学
ゲッティンゲン大学
ライプツィヒ大学
学位法学博士(日本・1891年)
主な業績文部省御用掛
東京大学御用掛和漢法律史編輯
帝国大学法科大学教授初代法制史講座担当者
学会東京学士会院
帝国学士院
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宮崎 道三郎(みやざき みちさぶろう、1855年10月14日安政2年9月4日) - 1928年昭和3年)4月18日[1])は、三重県津市出身の法学者法学博士東京帝国大学教授(法制史)。日本法律学校(現・日本大学)創立者(総代)。
人物

1855年(安政2年)9月に、伊勢国安濃郡津新道(現在の三重県津市)にて出生[2]藩校有造館で漢籍国史などを学んで、1872年(明治5年)に上京[2]日本法律学校(現日本大学の前身)の創立時には、設立評議員の一人である司法大臣山田顕義らによって、宮崎は若手の法律学者11名とともに設立者の代表として創立に深く関与している[3]
経歴

1855年(安政2年)9月4日 - 伊勢国安濃郡津新道(現三重県津市)に津藩藤堂氏重臣藤堂主膳の家老宮崎八郎右衛門(篤斎)の第四子として生まれる。

1870年(明治3年) - 開成学校入学。

1880年(明治13年) - 東京大学法学部卒業。文部省御用掛官立学務局勤務。

1881年(明治14年) - 東京大学御用掛兼務。東京大学法学部助教授。

1882年(明治15年) - 鹿児島県士族木場清生の娘・よし(木場貞長の妹)と結婚。

1884年(明治17年) - 文部省留学生としてドイツへ留学(沿革法理学・民法総論修業)。ハイデルベルク大学入学。

1885年(明治18年) - ライプツィヒ大学に転学。

1886年(明治19年) - ゲッティンゲン大学に学ぶ。

1887年(明治20年) - ライプツィヒ大学に戻る。

1888年(明治21年) - 帰国。帝国大学法科大学教授就任(日本法制史・比較法制史・ローマ法)[4]

1889年(明治22年) - 日本法律学校(現在の日本大学)創立者総代となる。

1891年(明治24年) - 法学博士号を取得。

1898年(明治31年) - 東京学士会院会員に選出される。

1912年(明治45年) - 帝国学士院幹事。

1922年(大正11年) - 東京帝国大学退官。東京帝国大学名誉教授

1928年(昭和3年)4月18日 - 逝去(72歳)、正三位、勲一等。墓所は青山霊園(1ロ19-7)

栄典・授章・授賞
位階


1891年(明治24年)12月21日 - 正七位[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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