この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。
出典検索?: "宮崎哲弥"
みやざき てつや
宮崎 哲弥
画像をアップロード
生誕宮崎 哲弥
(みやざき てつや)
(1962-10-10) 1962年10月10日(61歳)
日本・福岡県久留米市
国籍 日本
教育学士
出身校慶應義塾大学文学部社会学科
職業評論家(政治哲学、宗教思想)
コメンテーター
活動期間(処女評論集『正義の見方』出版から)1996年 -
団体研究開発コンサルティング会社「アルターブレイン」
影響を受けたもの釈迦、ナーガールジュナ、シモーヌ・ヴェイユ、エミール・シオラン、マイケル・サンデル、呉智英、小松左京
肩書き研究開発コンサルティング会社「アルターブレイン」副代表
相愛大学客員教授
宗教仏教
配偶者 あり
受賞第51回星雲賞(ノンフィクション部門)(2020年)
公式サイト宮崎哲弥オフィシャルサイト
テンプレートを表示
宮崎 哲弥(みやざき てつや、1962年10月10日 - )は、日本の政治哲学・宗教思想・時評ほか評論家およびコメンテーター。研究開発コンサルティング会社「アルターブレイン」副代表。
中央大学非常勤講師、京都産業大学客員教授を経て、2018年4月より相愛大学客員教授[1]。コミュニタリアン、仏教徒。福岡県久留米市出身。結婚に際して妻の姓に変えたため本姓は宮崎ではない[2]。 中学卒業後しばらく社会人生活を送り1年遅れで久留米工業大学付属高等学校[3] を経て、早稲田大学教育学部に進学するも、過度の飲酒で体調を崩し中退。その後、慶應義塾大学文学部社会学科に入学。同学部卒業後、さらに同大学法学部法律学科に学士入学するも中退。 少年期から思春期の素行について「不登校に陥ったときには、まるで咎人のように疎んじられ、『一家の恥』とまで罵られてすっかり自暴自棄になってしまいました」と語ったことがある[4]。 博報堂の嘱託研究員を経て、友人と共にニューラルネットワークのビジネス応用を主業務とする会社を設立。同時に評論活動として、『宝島30』で「評論家見習い」[注 1] として執筆活動を始め、西部邁の推薦を受けて処女評論集『正義の見方』(1996年)を出版した。 政治哲学・宗教思想を「自分のシマ」とするも、おおよそどのような話題についても論評する。 内閣府経済財政諮問会議「日本21世紀ビジョン」専門調査会 生活・地域ワーキンググループ副主査や、総務省「通信・放送の在り方に関する懇談会」構成員を務めた。 1998年12月から2006年3月まで新聞三社連合の論壇時評を担当[注 2]、2003年は共同通信の論壇時評も担当。2003年4月から2006年3月まで朝日新聞書評委員。 自らの基本的な立場を「仏教者」としている。 2020年に『100分de名著/小松左京スペシャル 「神」なき時代の神話』で、第51回星雲賞(ノンフィクション部門)を受賞。 この節の出典や参考文献は、一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼っています。信頼できる第三者情報源とされる出典の追加が求められています。 政治スタンスは「リベラル右派」を公言している[5][6]。左派の福島瑞穂を批判する一方、右派である西部邁と小林よしのりの両者が初期に関わっていた「新しい歴史教科書をつくる会」を批判する一面もある[7](福島瑞穂に関しては人格的には評価していると語っている。また、かつては「元々は、左翼だった」、更には「極左冒険主義者」と自らを称し、「議会制民主主義は信用ならない。暴力革命しかない。」という発言をしたことがある[注 3]。 しかし、二十代のはじめの頃に「そもそも資本主義体制の崩壊と社会主義体制への移行が歴史法則に基づく必然だとするならば、なぜ、個人が革命運動に参画し、身を捨てて邁進しなければならないのかがわからない」と不信感を抱き、さらに「自分自身の直面する死と実存の問題を解くのにマルクス主義はまったく役に立たない、マルキシストになっても仕方ない」と悟り、転向したという[8]。 小林の『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』批判でなされた「人の死はひとつの例外もなくすべて犬死である」との主張に対しての論争は物議を醸した[9]。
略歴
評論家及びコメンテーターとしての活動
出典検索?: "宮崎哲弥"
基本姿勢