宮島航路
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この項目では、総称的な宮島航路について説明しています。JR西日本宮島フェリーが運営する宮島航路については「宮島連絡船」をご覧ください。

宮島航路(みやじまこうろ)は、厳島(宮島)との間に就航している航路である。ICカードPASPYの他にSuicaPASMOなども利用できる。
目次

1 現在

2 宮島連絡船就航前

3 宮島連絡船就航後

4 年表

5 脚注

6 参考文献

現在

現在、利用者の9割以上は宮島口-宮島間で、以下の2路線が就航している。

広島電鉄系の宮島松大汽船

西日本旅客鉄道系のJR西日本宮島フェリー宮島連絡船

以上の2航路は、広島県道43号厳島公園線の一部をなしている。

他に、瀬戸内シーラインが運航する広島港発グランドプリンスホテル広島前経由の「広島・元宇品?宮島航路」や、アクアネット広島が運航する原爆ドーム近くの元安桟橋間を結ぶ「世界遺産航路」などもある。

利用者数の詳細は、「宮島桟橋#利用状況」を確認のこと。
宮島連絡船就航前

宮島を結ぶ航路について、江戸時代から廿日市や地御前から出航する渡海船や番船が、宮島および能美島間を就航していた。

1877年(明治10年)に、当時の国道が海沿いにルート変更。そのことで参拝者が増加。翌1878年(明治11年)8月に、渡船業者の届け出が義務化された。1888年(明治21年)には業者間の申し合い規約書が定められた。

1891年(明治24年)時点で、地御前村阿品(現在の廿日市市阿品)には十数隻の渡海船が就航していた。当時の運賃は、水夫1人の場合、1人6銭・2人8銭・3人9銭。以降、乗客が1人増えるごとに1銭増加。水夫が1人増えるごとに5銭追加していた。ただ、業者間の競争により、申し合いは余り守られていなかった。

1894年(明治27年)に、再度申し合い規約書が同業者一同78人で記名調印した。同年には宮内村(現在の廿日市市宮内)にも業者が存在していた。

同年には、広島市西本川(現在の広島市中区中島町)の汽船問屋、石井久平が小型の蒸気船長安丸を購入。宇品・廿日市・宮島・呉間に就航した。1896年(明治29年)8月に寄港が途絶気味になり、廃止になった模様である。
宮島連絡船就航後

1897年(明治30年)9月25日山陽鉄道の延伸に合わせて広島市在住の実業家早速勝三[1]が、赤崎海岸に桟橋を設置。宮島間の航路を就航した[2]。のちに、町有志の事業になり、山陽鉄道が買収。その山陽鉄道が国に買収されたことで、国の航路になった。これが、現在の宮島連絡船のルーツになっている。

1925年(大正14年)7月には、広島電鉄の前身の広島瓦斯電軌が、宮島線地御前駅まで開業。駅から桟橋までは自動車で連絡。新宮島桟橋(現在の西広島バイパス高架合流付近)から宮島桟橋間の「新宮島連絡船」を就航させた。翌1926年(大正15年)には、宮島線は新宮島駅まで開業し、自動車による連絡は解消したが、1931年(昭和6年)の宮島線の電車宮島駅(現在の広電宮島口駅)開業で航路は廃止された。

1939年(昭和14年)には、「合資会社松大航運社」が設立。1957年(昭和32年)に「宮島松大観光船有限会社」に組織変更され、翌1958年(昭和33年)に広島電鉄の資本参加を受けた。これが、現在の宮島松大汽船のルーツになった。
年表

江戸時代 - 廿日市や地御前より渡海船や番船が就航

1878年(明治11年)8月 - 渡海業者の届け出義務化

1888年(明治21年) - 業者間の申し合い規約書が定められる

1894年(明治27年) - 再度業者間の申し合い規約書が定められる

同年 - 広島市の汽船問屋、石井久平による航路就航

1896年(明治29年)頃 - 石井久平による航路自然消滅

1897年(明治30年)9月25日 - 広島市の早速勝三が航路開設(宮島連絡船の始まり)

1900年(明治33年)6月 - 早速勝三の航路を宮島有志により引き継ぎ「渡津合資会社」になる

1901年(明治34年)9月 - 「渡津合資会社」が組織変更。「渡津株式会社」になる

時期不明 - 「渡津株式会社」が「宮島渡航株式会社」になる?

1903年(明治36年)5月8日 - 「宮島渡航株式会社」すべてを山陽鉄道が買収して直営航路として運航開始

1906年(明治39年)12月1日 - 山陽鉄道が国有化される

1925年(大正14年)7月15日 - 広島瓦斯電軌による宮島行航路「新宮島連絡船」開始

1931年(昭和6年)2月1日 - 広島瓦斯電軌による宮島行航路「新宮島連絡船」廃止

1939年(昭和14年)12月 - 「合資会社松大航運社」設立(「宮島松大汽船」の始まり)

1957年(昭和32年)4月 - 「宮島松大観光船有限会社」設立

1958年(昭和33年)3月6日 - 「宮島松大観光船」が広島電鉄の出資を受けて広電グループになる

1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化で、宮島連絡船西日本旅客鉄道に移管される

2004年(平成16年)7月 - 「宮島松大観光船」が組織変更で「宮島松大汽船株式会社」になる

2009年(平成21年)4月1日 - 宮島連絡船が西日本旅客鉄道からJR西日本宮島フェリーに移管される

脚注^ 当時広島最大の部数だった新聞芸備日日新聞の社主だった
^ 芸備日日新聞 1897年9月23日付の新聞広告に、同月25日から連絡船就航開始の旨が記載されている

参考文献

広島電鉄開業80創立50年史(広島電鉄発行)

ふるさとの写真集(廿日市町教育委員会発行)

廿日市町史 通史編(下)(廿日市町)

廣島県 大野町誌(広島県佐伯郡大野町役場)

古川達郎『鉄道連絡船再見 海峡を結ぶ"動く架け橋"をたずねて』、
JTBパブリッシング〈JTBキャンブックス〉 ISBN 978-4-533-07319-9


更新日時:2018年8月19日(日)06:28
取得日時:2018/12/20 21:57


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