宮島の鹿(みやじまのしか)は、広島県廿日市市宮島町の厳島(宮島)に生息する鹿。 厳島は約6,000年前縄文海進により本州と離れ離島化したが、その際に本土側の鹿の個体群から分断したものが宮島の鹿の起源であると考えられている[1][2]。のち本土側個体群の分布域が縮小して厳島の対岸側には鹿が生息しなくなったことで厳島のものが孤立化した[1]。 厳島の鹿は厳島神社の神使とされているが、奈良の鹿と春日大社のような神鹿伝説は厳島には存在しない[3]。カラスが厳島神社を建てる位置を示したという神烏伝説が残るが、鹿に関するものはない[3]。厳島神社が創建されると島自体が神の存在であるとして神の島と呼ばれだし[4]、以降現在までに何度か厳島=宮島=神の島であると強調された時期があり、そのたびに神鹿として崇められてきたと推察されている[3]。あるいは一般的な神社における神鹿思想と宮島島民の風習(神の島での不殺生)が結びついたものであると地元歴史家は分析している[5]。 過去の文献において宮島の名が用いられているものに、源通親『高倉院厳島御幸記』[注 1]がある。鎌倉時代に成立した『撰集抄』に宮島の鹿に関する記載がある[6]。 所にしゝをからされは、御山には男鹿啼、草に露落、野地東なれは、虫の声盛に侍り ? 作者不明(西行に仮託された創作)、撰集抄 巻五第一二 厳嶋毛利家文庫『芸州厳島御一戦之図』鹿が数頭描かれている。 『陰徳太平記』厳島の戦いの項で、包ヶ浦に上陸した毛利元就の前に1頭の鹿が現れたことが書かれている。 かかりける所に小男鹿一匹林の中より出て元就父子の前に来れり。元就唯今男鹿の来る事。明神忝も道迎にいたさせ給たるならん。神明應護疑いなし。合戦の勝利掌の中に在と宣。 ? 香川正矩、陰徳太平記 巻第二十七岳亭一麿『厳島八景之図 谷原麋鹿』[注 2] 江戸時代、宮島が行楽地・観光地として栄えていくと同時に厳島 = 宮島 = 神の島が定着していった[3]。この時代以降、訪れた文人・僧たちが日記の中に鹿のことを書き、様々な絵図が描かれた[6]。 初春に はじめて鹿の 声きけば いつも恵は ゆたかなりけり ? 福島正則、慶長13年(1608年)正月[5] 1710年(宝永7年)忌に関する「厳島服忌令」が出され、この中で神鹿であること古くから保護されてきたことが明文化された[3]。1715年(正徳5年)、厳島光明院の僧・恕信は厳島八景の一つに選んでいる。家に入るのを防ぐ「鹿戸」、残飯を餌として与えた「鹿桶」などあった[5]。小原古邨『月 鹿 宮島』1935年(昭和10年)。 明治初期、神仏分離・廃仏毀釈によって島は大きく混乱した。政治的に安定した後のことになる1879年(明治12年)広島県令により、鹿を守るために全島が禁猟区となり犬を飼ってはならないと定められた[3]。 宮島の 紅葉が谷は 秋闌けて 紅葉踏み分け 鹿の来る見ゆ ? 正岡子規 第二次世界大戦後、鹿は激減した(原因については定かにされていない)[2][1][3]。少なくなった鹿を大願寺境内で柵で囲い込んで繁殖し20から30頭になった時点で開放したりなど、地元住民による保護対策によって回復している[5][2][1][7]。
沿革