宮将軍
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宮将軍(みやしょうぐん)は、鎌倉時代後期に征夷大将軍に任じられた宗尊親王惟康親王久明親王守邦親王の4親王を指す歴史用語。現代では皇族将軍(こうぞくしょうぐん)、親王将軍(しんのうしょうぐん)とも呼ぶ。また彼らを総称して鎌倉宮家(かまくらのみやけ)と表現することもある。

なお、建武の新政期に後醍醐天皇より任じられた護良親王成良親王も宮将軍と呼ぶことがある。しかし前者の4親王は鎌倉政権の形式上の長で実権を持たないのに対し、後者の2親王は建武政権において短期間ではありながら重要なその一翼を担った実務者だったことが根本的に異なる。
概要

鎌倉幕府の基本的な主従制構造は、武家の棟梁である鎌倉殿(≒征夷大将軍)と御家人との御恩と奉公の関係により成り立っていた。しかし、鎌倉殿の後継であった源実朝の他に源頼朝直系の源氏嫡流の子孫がいないことや、実朝自身に子がないことから源氏将軍が絶え、「皇族から武家の棟梁を」と考えた実朝の母北条政子やその弟北条義時らにより1218年の時点で一度朝廷側に提案された。しかし、翌1219年に起きた実朝暗殺により後鳥羽上皇の拒否に遭い頓挫し、源頼朝と血縁関係にあった2歳の九条頼経が鎌倉に下向することでようやく将軍職を相続することとした(摂家将軍)。だが頼経は成長すると独自の政権運営を指向し、執権に反抗的な態度を取ったために追放される(宮騒動)。

その後、頼経の子頼嗣が将軍職を継承するが、1252年北条時頼らの奏請により、後嵯峨天皇の第1庶皇子である宗尊親王が将軍として鎌倉に迎え入れられることとなる。しかし、すでに幕府の権力は執権の地位にあった北条氏が保持していたため、将軍といえども名目となっていた。そのため、就任は10歳前半までに行い、長じても20歳代までに将軍職を辞任して京都に返され、中務卿式部卿などに任ぜられることが通例であった。ただし、宗尊親王と次の惟康親王については両統迭立問題との関連を指摘する説もある(後述)。最後の将軍であった守邦親王は幕府滅亡後に鎌倉で出家している(守邦は鎌倉で生まれているため、親王宣下を受けた皇族でありながら生涯京都の地を踏んだことはなかった)。

なお、宮将軍として2代目となる惟康王は将軍在任中に臣籍降下し、源姓を賜与され源惟康として源氏将軍となっているが、最終的には皇族(惟康親王)に復帰し宮将軍に落ち着いている。惟康の源氏賜姓は、当時の蒙古襲来(元寇)という未曽有の事態に対する、北条時宗による政策の一環であったとする説がある。時宗はかつての治承・寿永の乱あるいは承久の乱を先例として、惟康を頼朝になぞらえ、時宗自身は高祖父の義時になぞらえることで、御家人ら武士階級の力を結集して、に勝利することを祈願したのだという。1279年の惟康の正二位への昇叙、1287年の右近衛大将への任官はいずれも頼朝を意識してのものであり、北条氏がその後見として幕政を主導することによって、同氏による得宗専制の正統性を支える論理としても機能していた。特に源氏賜姓と正二位昇叙はいずれも時宗政権下で行われており、時宗が源氏将軍の復活を強く望んでいたことが窺える。また親王宣下については、将軍の親王化を目指す内管領平頼綱の意向によるもので、執権北条貞時が成人した惟康の長期在任を嫌い、後深草上皇の皇子である久明親王の就任を望み、惟康追放の下準備を意図したものであったとしている[1]
宮将軍が鎌倉幕府に果たした役割

そもそも、鎌倉幕府は朝廷の律令制度を巧妙に利用して成立した統治機構であった。幕府の政治機構である政所の開設は従三位以上の貴人に許される特権であり、政所の職員は朝廷から叙位を受け官吏としての処遇を受ける。幕府の統治を支えた守護地頭制や大犯三箇条も朝廷の勅許勅命によるものであった。そのため、源氏将軍であれ摂家将軍であれ、代々の将軍は位階が三位に達しない段階では政所を開設できず、また幕府の命令書も将軍が三位に昇るまでは袖判下文、三位以上となった段階で政所下文とその格式を採用することができた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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