宮城県白石高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度0分1.46秒 東経140度36分46.3秒 / 北緯38.0004056度 東経140.612861度 / 38.0004056; 140.612861
宮城県白石高等学校(みやぎけんしろいしこうとうがっこう)は、宮城県白石市にある県立高等学校。略称は「白高」(はっこう、はくこう)。しばしば同市にある宮城県白石工業高等学校(白工)と混同される。 1899年に刈田中学講習会として創立した旧・宮城県白石高等学校(男子校)と1911年に白石町立白石実科高等女学校として創立した宮城県白石女子高等学校を2010年度に統合し共学化した。旧・白石高校第2グランドに新校舎を建設し、旧・白石高校(白石市益岡町)と旧・白石女子高校(白石市沢端町)の跡地と施設は、主に部活動で使用している。 創設以前、宮城県の中学校ば明治25年に開校した宮城県尋常中学校の1校のみだった。そんな中各地で中学志願者が増加傾向にあり、各郡に分校設置を求める動きがあった。刈田郡も分校設置を願い出たが認可が降りず、公立中学の誘致をすることができなかった[1]。しかし刈田郡では中学志願者の増大と通学の困難さが深刻化していた[1]。そこで亘理晋、疋田運猷を中心として中学設置運動が展開された。それにより1899年(明治32年)3月に創設されたのが刈田中学講習会である。これを祖としているが、当初民家を教場として利用しているに過ぎなかった[1]。 亘理晋は東京大学医学部を卒業後白石亘理町に松窓療院を開いた開業医であった。それ故に中等教育をはじめ基礎教育が地域の発展につながることを肌で感じていた。疋田運猷は白石延命寺の住職であり、東京の真言宗大学と早稲田東京専門学校を卒業し延命寺の住職となった[1]亘理とは旧知の仲であり中学設置不認可について残念話や後悔談を繰り返し聞いていた。これが運動の契機になったと言われている。 刈田中学講習会は白石大火に見舞われ休講中であった明治11年に私立学校令施行規則の制定があり、その際に私立刈田造士館と改称した[1]。 白石高校野球部が1953年(昭和28年)、甲子園に出場するという快挙を成し遂げたがその際現地に応援へ行くことができた生徒は2人のみだった[1]。当時の経済状況と鑑みても当然のことであり、一般生徒の間では運動部への組織的な応援活動が必要であるという声が高まった。生徒会はこの意見に応じる形で応援団の組織化が図ることになった。そして1956年(昭和31年)に白石高校応援団が発足した[1]。翌年1957年(昭和32年)より新入生に対する応援練習が開始した[1]。旧制中学時代にも昭和6年に応援団が結成されていた。応援歌の制定はこの時である[1]。 制服の義務は1974年度(昭和49年度)入学生から廃止された[1]。これには1972年度(昭和47年)から1973年度(昭和48年)に及ぶ生徒会執行部や意識的な生徒たちによる1年間に及ぶ自由化運動の末、制服が自由化されたという背景がある。ビラ配りや横割りHRなどが行われ在校生に広がっていった。この制服自由化を通じて教員に対する不信感や、必要以上の対立が生まれたことにより実力行使や、ボイコットといった状況になり、新聞に取り上げられたこともあった[1]。
概要
設置学科
全日制課程(本校)
普通科
看護科
定時制課程(七ヶ宿校)
普通科
沿革
年表
(旧)宮城県白石高等学校
1899年
4月 - 刈田中学講習会として創立。
11月 - 私立刈田造士館と改称。
1901年1月 - 私立刈田中学校と改称。
1903年6月 - 刈田郡立刈田中学校となる。
1910年4月 - 宮城県立白石中学校となる。
1919年11月 - 宮城県白石中学校と改称。
1948年
4月 - 新学制に伴い、宮城県白石高等学校と改称。
7月 - 定時制課程(中心校、関分校、湯原分校)が併設。
1949年4月 - 定時制課程小原分校が開校。
1950年3月 - 定時制課程湯原分校が閉校。
1955年12月 - 宮城県仙台第一高等学校通信教育部の協力校に指定。
1957年4月 - 定時制課程関分校を七ヶ宿分校と改称。
1963年5月 - 宮城県角田高等学校との定期戦が始まる。
1964年3月 - 定時制課程小原分校が閉校。
1973年5月 - 制服が自由化。
1977年3月 - 宮城県仙台第一高等学校通信教育部(=通信制)の協力校を解かれる。
1980年 - 宮城県白石女子高等学校定時制課程の閉校に伴い、定時制課程が共学化。
1995年4月 - 全日制課程の推薦入学を導入。七ヶ宿分校を七ヶ宿校と改称。
2007年 - 定時制課程が閉校となり、宮城県大河原商業高等学校定時制課程と合併。
2010年 - 宮城県白石女子高等学校と統合共学化。それに伴い、同校に併設していた看護科が設置。
(新)宮城県白石高等学校
2008年10月 - 校舎建設着工。
2010年
3月 - 校舎建設竣工。
4月8日 - 開校式、入校式、入学式を挙行。
10月29日 - 開校・校舎落成記念式典を挙行。同日が開校記念日となる。
刈田中学講習会の創設
応援団の設置と応援練習
制服自由化運動
部活動
運動部 - バレーボール、山岳、卓球、水泳、硬式野球、ソフトボール、ソフトテニス、新体操、陸上、バスケットボール、柔道、剣道、バドミントン、サッカー、弓道
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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