宮城山福松
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宮城山 福松

土俵入りを行う宮城山福松(1925年頃)
基礎情報
四股名宮城山 福松
本名佐藤 福松
愛称小鳳
弱い横綱
生年月日1895年2月27日
没年月日 (1943-11-19) 1943年11月19日(48歳没)
出身岩手県一関市山ノ目町五代
身長174cm
体重113kg
BMI37.32
所属部屋出羽ノ海部屋高田川部屋(大坂)
得意技右四つ、寄り、吊り、下手投げ、うっちゃり
成績
現在の番付引退
最高位第29代横綱
生涯戦歴104勝76敗1分26休(22場所)
幕内戦歴90勝70敗1分26休(17場所)
優勝幕内最高優勝2回
データ
初土俵1910年6月場所
入幕1916年6月場所
引退1931年3月場所
引退後年寄・白玉(のちに芝田山
備考
2019年7月4日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

宮城山 福松(みやぎやま ふくまつ、1895年2月27日 - 1943年11月19日)は、岩手県西磐井郡(現:岩手県一関市山目町出身の元大相撲力士。第29代横綱。本名は佐藤 福松(さとう ふくまつ)。大阪相撲最後の横綱でもある。目次

1 来歴

1.1 誕生?東京相撲脱走

1.2 大坂相撲で横綱昇進

1.3 現役引退?晩年


2 人物・エピソード

3 主な成績(東京)

3.1 場所別成績

3.1.1 東西合併以後



4 主な成績(大阪相撲)

4.1 場所別成績


5 改名歴

6 年寄変遷

7 墓

8 脚注

9 参考文献

10 関連項目

来歴
誕生?東京相撲脱走

1895年2月27日岩手県西磐井郡(現:岩手県一関市山目町五代で生まれる。幼少期から大きな体格で、馬車が溝に落ちて動かなくなると、やすやすと持ち上げて父を助けたという。家業だった乗合馬車と農業を手伝いながら村相撲で活躍していたところ、1909年常陸山谷右エ門の一行が岩手へ巡業に来た際に力士に憧れ、志願して入門した[1]

同年6月場所において、故郷・岩手県に因んだ「岩手川」の四股名初土俵を踏んだ。1912年5月場所にて三段目に昇進すると、床山に対して当時は許されていた大銀杏を結ってもらって喜んでいた。そこへ幕下力士だった九州山十郎がやって来て岩手川の大銀杏姿を一目見るや「この野郎!生意気だ!」と殴られ[2][3]、岩手川は当場所限りで脱走した(表面上は「病気を理由に帰郷」とされた)。しかし相撲への情熱が冷めることはなく、さらに岩手川の素質を惜しんだ出羽ノ海の勧めで高田川部屋大坂相撲)へ加入し、「宮木山」(のち「宮城山」)と名乗って幕下から再出発した。1916年6月入幕で8勝1敗1。1917年1月に関脇昇進を果たし8勝1敗1預、1月場所後大関に昇進[1]。玄人受けする技巧派の取口には定評があり、大関在位は10場所。1921年3月に開催された東京相撲との東西合併興行の初日に因縁の九州山との対戦が組まれ、これに勝利したが、支度部屋から部屋へ帰る直前に羽織・袴姿の九州山が訪ねて来て昔の無礼を詫びたため、真意を受けて和解の握手を行った。
大坂相撲で横綱昇進

1922年1月場所に10戦全勝を果たし[1]、大坂相撲の力士としては4人目となる横綱免許が、吉田司家から授与された[4]。ところが、宮城山が横綱に昇進する直前に?疽を発症し、以降は休場が続く。特に1923年 - 1925年までの成績は7勝2敗1分50休で、さらに1923年9月1日に発生した関東大震災で旧・両国国技館を失って苦しむ東京相撲との合併の話が持ち上がり、番付統合を行うための合併場所が1925年 - 1926年に開催された。この合併場所において大坂相撲の力士は東京相撲の力士より力量が劣ることが判明し、大坂相撲で大関を務めた荒熊谷五郎は前頭9枚目、錦城山勇吉は前頭10枚目に置かれてしまい、一人だけ東京相撲の力士と互角に対戦できた真鶴秀五郎は前頭筆頭となった。

大坂相撲では圧倒的な強さを誇っていた大関陣が東京相撲の力士と対戦して敗れ、前頭下位に据え置かれる状況に、宮城山の東京相撲の力士に対する実力も周囲から不安視されていた。さらに宮城山は、横綱昇進直前から昇進直後にかけて休場ばかりが目立っていたため、正式な横綱とは言えども周囲の不安は募るばかりだった。その不安は的中し、宮城山の実力は合併場所通算3回の出場で11勝10敗と散々な成績で「小結程度」と判定された。


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