宮城前広場
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皇居外苑(皇居外苑地区)
Kokyogaien National Gardens (Kokyogaien Area)
国土交通省提供の航空写真に見る皇居外苑付近。1989年撮影。写真左が皇居、右が東京駅方向になる。

分類国民公園
所在地 日本東京都千代田区
座標北緯35度40分49秒 東経139度45分26秒 / 北緯35.68028度 東経139.75722度 / 35.68028; 139.75722座標: 北緯35度40分49秒 東経139度45分26秒 / 北緯35.68028度 東経139.75722度 / 35.68028; 139.75722
面積115 ha(北の丸および皇居外周地区を含む)
前身皇室苑地
開園1949年6月1日
運営者環境省
現況年中開放
設備・遊具記事を参照
駐車場なし
告示昭和24年5月31日厚生省令第19号、(変更)昭和34年5月6日厚生省令第13号
事務所環境省皇居外苑管理事務所
事務所所在地東京都千代田区皇居外苑1-1
備考北の丸地区は北の丸公園を参照
公式サイト ⇒皇居外苑(環境省ホームページ)

皇居外苑(こうきょがいえん)は、東京都千代田区にある国民公園、および、同公園に由来する千代田区の町名である。
目次

1 概要

2 歴史

3 地域

4 地名としての皇居外苑

4.1 概要

4.2 沿革

4.3 町名の変遷


5 交通

5.1 鉄道

5.2 道路


6 脚注

7 関連項目

8 外部リンク

概要

皇居外苑は厳密には1969年(昭和44年)に開園した北の丸地区(北の丸公園)と皇居前広場の皇居外苑地区、それに皇居の周り濠に沿った皇居外周地区を総括的に指すが、通常は皇居前広場を中心とした地区を指す(本項ではこれを扱う)。都市計画法第11条(都市施設)に基づく名称は、北の丸公園、日比谷公園と合わせて「東京都市計画公園第5・8・23号中央公園」である。広大な広場のほかに、桜田門二重橋といった日本を代表する歴史的にも貴重な建築物を見ることが出来る。

入苑は無料。広く開放されており開苑・閉苑の概念自体ない。
歴史

元々は皇室苑地であったところを戦後、国民公園として開放することが閣議決定され、1949年(昭和24年)に開園。広大な芝生黒松の木を中心とした皇居前広場に、巨大な噴水を上げている和田倉噴水公園など都心で数少ない安らぎの空間となっている。1971年(昭和46年)に当時の厚生省から環境庁(現:環境省)に管轄が変わった。東京都内の観光ツアーの訪問地の代表格でもあり、海外からのも含め観光客の姿も多い。

皇居に接している場所ということもあり、多くの事件・出来事が起こった。

死のう団事件 1937年(昭和12年)2月 - 団員の一人が「死のう」と書いたビラを撒いて割腹自殺を図る。

皇居前での集団自決 1945年(昭和20年)8月 - 第二次世界大戦の敗戦を機に、明朗会の12人など皇居前広場で多くの自決者が出た。

朝鮮人生活権擁護全国大会 1946年(昭和21年) - デモ隊は皇居から首相官邸に向かい、首相官邸デモ事件を引き起こした。

全日本ボーイスカウト大会(後の日本ジャンボリー)が1949年(昭和24年)、皇居前広場で開催。

人民広場事件 1950年(昭和25年) - デモ隊と占領軍が皇居前広場で激突。死者は出なかったが、レッド・パージのきっかけとなった。

皇居前広場事件 1952年(昭和27年) - 日本労働組合総評議会がメーデーでの使用を厚生大臣が不許可としたことで、訴訟となった。

血のメーデー事件 1952年(昭和27年) - デモ隊と警察が皇居前広場で激突。死者2名を出した。

二重橋事件 1954年(昭和29年) - 宮中一般参賀による警備の不手際により発生した群集事故。死者16名、負傷者65名を出した。

地域

公園というが遊具などはなく、広場の散策や江戸城の歴史に触れる憩いの場として見る向きが強い。また、皇居に隣接している性質上、皇宮警察警視庁の監視がある。

皇居前広場 - 皇居外苑の代表的な広場。非常に広大な広場で、都心とは思えないほどのとても開放的な雰囲気である。


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