宮地茂秋
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宮地 茂秋(みやじ しげあき、1884年明治17年)9月28日 - 1977年昭和52年))は、明治大正昭和の実業家。日本セメント株式会社常務取締役、京阪電気鉄道株式会社監査役、呉軍港土地株式会社取締役、セメント連合会会長。自由民権活動家・宮地茂春の長男。坂本龍馬板垣退助両家の血統を引く人物。妻は福岡孝弟の孫娘。
来歴
生い立ち

明治17年(1884年9月28日自由民権活動家・宮地茂春の長男として高知県土佐郡潮江村(現・高知市)に生まれる。母は、板垣退助の二女・軍子。

宮地家は、土佐藩白札郷士の家柄で、宮地茂秋は、板垣退助の孫であり、また坂本龍馬の曾祖父・山本伴蔵信敬の血縁子孫にあたる[1][2]。祖父・宮地茂樹(甚蔵・自然)は、北越戦争に従軍して功を上げた。父・宮地茂春は、板垣退助の片腕として全国遊説に随行し、また自らも弁士として、民権自由論を論説した人物。
実業家として

東京帝国大学法科を卒業し、叔父・浅野泰治郎[3](浅野総一郎の長男)の経営する、浅野セメント株式会社へ入社[4]。同社理事・総務部長となり、また朝鮮浅野セメントの経営に辣腕を振う。のち土佐セメント株式会社取締役に就任。日本セメント株式会社常務取締役、呉軍港土地株式会社取締役を歴任[5]

大正7年(1918年10月21日子爵福岡秀猪の娘・呉子と結納[6]を交しのち婚姻。

その後、末広土地株式会社取締役、藤原製材株式会社取締役、大阪石綿工業株式会社監査役、日本ヒューム管株式会社監査役、浅野ブロック製造株式会社監査役、浅野スレート株式会社監査役を務めた[5]

大正10年(1921年9月21日、北陸の「伏木製紙」が電気室からの出火により工場を全焼。経営不能に陥り、同10月15日、全従業員を解雇し事業停止を余儀なくされた際、浅野財閥の総帥・浅野総一郎が救済を表明し、1923年(同12年)2月、資本金50万円を出資して「伏木板紙」として再設立された際、社長:浅野泰治郎、取締役:金子喜代太と木津太郎平、監査役:宮地茂秋と荒野権四郎、支配人:石川七兵衛が就任し、顧問は浅野総一郎大川平三郎が務めた。

昭和4年(1929年12月8日日光東照宮板垣退助像建立時の除幕式では、宮地茂秋が家族代表として謝辞を述べた[7][8]。(日光の板垣像建立も参照)

同8年(1933年)、日本満州支那の完全諒解に成れる珠玉的投資株に賛同し参画[9]。戦後、浅野財閥は、GHQにより財閥解体される。

同27年(1952年11月11日京阪電気鉄道株式会社の監査役に就任[10][11]

その他、関東運輸株式会社監査役、旭コンクリート工業株式会社監査役、セメント連合会会長などを歴任した[5]
望月圭介との交流

広島出身の政治家望月圭介が内務大臣として昭和天皇御大典護衛の大任を無事終えたことと御大典祝賀を目的として、望月圭介の胸像が建立される際、発起人として佐上信一、佐々木良一、名川侃市、渡辺伍森田福市、大橋信吉、宮澤裕宮澤喜一の父)、村井二郎吉、岸本斐夫、高宗p一、嶋居哲、堀内廉一、中田謙二、細川潤一郎、宮本源之助、小山寛蔵、梅田寛一、久保田金四郎、木村寛一、木島茂藤田好三郎らと共に宮地茂秋も名を連ねている[12]。望月圭介が、最初の政党を自由党としたのは、板垣退助を尊敬したことによるもので、板垣の薨去後、毎年行われた追悼法会には必ず望月が世話人となっていた[13]。また、昭和4年(1929年日光東照宮板垣退助像建立の時には、除幕式で望月圭介が式辞を述べている[7][14]
晩年

同52年(1977年)没、享年94歳。墓は東京青山霊園(1ロ-21-1[15])にある。


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